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徐葆光の仏桑花、木槿、芙蓉

写真は仏桑花、いろいろ。
仏葬花1仏葬花2

仏葬花3仏葬花4

徐葆光の詩はなかなか一筋縄ではいかぬ。仏桑花の詩でもそうだ。

扶 桑      ブッソウゲ
只憑碧海托弧根  ただ青い海に頼って一本の根を托した。
借得朝華作燄噴  朝の太陽の光を浴びたら、炎が噴き出すように咲き初める。
十日攢光結花蘂  十日間かけて太陽の光を集め、花蕊(はなしべ)となる。
也随朱槿怕黄昏  それに、朱槿と同じように、(花がしぼむ)黄昏が恐ろしい。

※以下、徐葆光の詩の引用は「徐葆光『奉使琉球詩 舶中集』詳解」鄔揚華(う・やんふぁ)より。

「只憑碧海托弧根」。ただ碧海を頼みとして一個の根を託した、とはじまる。中国原産の仏桑花はその昔、はろばろと海を渡り琉球の土に根をおろしたというのだろう。いきなり悠久の時と碧い海原のうねりとで骨太に筆を起こし、次句では突如眼前の仏桑花が朝の太陽を浴びて、炎を噴き上げるように咲く。三句でその五枚の花弁から長く突き出た蕊柱(花蕊)となるのに、「十日間かけて太陽の光を集め」たと、碧い海原から花蕊の微細な世界へとさらに引きづり込む。だけど、四句で、一日花(いちにちばな)を待ち受ける黄昏がくるのは恐ろしいと、一変して仏桑花(朱槿)から自分のこれからの人生に忍び込む黄昏に思いが畳み込まれていく。

中国周辺部の奇怪な地理書『山海経』を好む徐葆光は当然『山海経』の扶桑を踏まえている。東海中の日の出るところにあるという神木の扶桑。東海中にある琉球国。碧海を頼みとして一個の根が辿りつく。朝の太陽の光を浴びて咲く花はいうまでもなく徐葆光の置かれた立場そのものでもある。年譜を少し見る。

◇徐葆光略年譜◇
康煕10(1671年)    4月16日、江南蘇州府長洲県で生まれる。
康煕44(1705年)34歳 康煕帝の江南巡幸の際詩を献上。郷試の受験資格を得る。
康煕47(1708年)37歳 潘葆光という名で科挙試験の郷試に合格し、挙人となる。
康煕51(1712年)41歳 殿試で一甲(3名)の中に入る。
               翰林院編修(正七品)の職が授けられる。
康煕57(1718年)47歳 6月1日、康熙皇帝より冊封副使を拝命する。
               正一品待遇を正使・海寶とともに授与される。
康煕58(1719年)48歳 5月22日、冊封副使として琉球へ出発。
               6月1日那覇港到着。
康煕59(1720年)49歳 2月16日那覇港出港。14昼夜かけ帰国。
               (琉球滞在252日)
康煕59(1720年)49歳 7月11日、熱河行宮(避暑山荘)で康煕帝に復命の謁見。
康煕60(1721年)50歳 『中山伝信録』全六巻を刊行する。
雍正11(1733年)62歳 『奉使琉球詩』を出版する。
乾隆元 (1736年)65歳  実録館纂修官の職に就く。
乾隆2 (1737年)66歳  辞職し、蘇州へ帰郷する。
乾隆5 (1740年)69歳  病没する。

37歳で科挙試験の郷試に合格というのは決して早いものでもない。また、皇帝自ら出題、臨席して行うという科挙試験最終の「殿試」を受けるまでには五段階がある。しかし、徐葆光は三段階目の「会試」に不合格となる。それを康熙帝の恩寵で殿試を許される。徐葆光に対する康熙帝の評価がすでにあったということだろう。殿試では一甲の三人の中に入り(第1位の状元:王世琛、第2位の榜眼:沈樹本、第3位の探花:徐葆光)、翰林院編修の書記として登用される。翰林院は康熙帝直属の秘書室であり、国史、書物の編纂、詔勅の起草などを行ったのである。1719年・48歳、冊封副使として6月1日に那覇港に着く。琉球国王は中国の九品官制では「二品」とされていた。冊封正使、副使は歴代正一品待遇を授与され派遣される。徐葆光たちも冊封期間中は臨時に「正一品」が授与された。1720年2月16日那覇港を出港する。琉球滞在が252日の長期となった主因は冊封使の従者が持ち込んだ大量の物品の買い取りをめぐる評価(ハンガー)事件による。冊封七宴最後の望舟宴は評価(ハンガー)が済んだ12月26日に終え、その日のうちに乗船するが、那覇を発つのは2月16日となる。7月11日、熱河行宮(避暑山荘)で康煕帝に復命の謁見をし、『冊封琉球図本』を献呈する。1721年・50歳に冊封使録、『中山伝信録』全六巻を刊行。1733年、『奉使琉球詩』を出版。20余年にわたり翰林院での仕事なので身分も安定していたといってよい。彼はライフワークを『奉使琉球詩』の完成と定め62歳にして出版にこぎつけた。病を得て職を辞し故郷へ帰ったとあるが、「楓江徐師輓歌」(黄子雲)の序で、師(徐葆光)の病状について「手足のしびれ」のことがあり、脳卒中のようなものだったのだろうか。徐葆光の没年をこれまで岩井茂樹の説の1723年とされていた。張慧剣・鄔揚華等の検証が進んで、没年「1740年」を確かなものとするところまでこぎつけている。

琉球に渡来した冊封使にとって、琉球の先王の諭祭と世子の冊封など典礼を主催することが表向きの使命だが、康熙帝が冊封正・副使の人選を、優秀な人材が集う自らのおひざ元の翰林院から派遣する方向に変更したには、「声教」をより冊封政策の軸とする意図もあっただろう。
冊封使の大きな役目は中国の思想、文化、芸能などの伝播など、いわゆる「声教」などを通して、清朝への臣服をより強化していこうというものなので、徐葆光たちは観たり、聞いたり、食べたり、飲んだり、地方へ出かけたりと、こまめに記録しながら琉球を吸収しようと努めている。徐葆光の冊封使録、『中山伝信録』は康熙帝の求めていたものが何かを如実に語っているといえる。また、それに如何に答えるかに命をかけるように徐葆光は応えているといえる。ただ碧海を頼みとして一個の根を託した、というのは康熙帝から託された使命と、それを負って琉球にきた徐葆光自らの事も暗示しているのだろう。

仏桑花の花びらは写真の通り五枚である。雄しべと雌しべの合体した長い蕊柱(花蘂)がある。写真左上の雌しべの先はカタツムリのツノのように五つ目玉のように分かれているのがよく分かる。咲いたその日に萎んでしまう一日花(いちにちばな)。小さい頃はアカバナー(赤花)と母から教えられた。同時にグソーバナ(後生花)とも教わった。それを墓に供えるということはなかったが、墓のまわりには真っ赤なアカバナー(赤花)がよく咲いていた。仏桑花という名前は学校で教わったと覚えている。仏桑花の種類が増えていくとハイビスカスと総称するようになった。徐葆光は扶桑、朱槿(しゅきん)と呼んでいる。

二句目。朝の太陽の光を浴び、炎が噴き出すように咲き初めるという仏桑花はどこにあるのか。それは徐葆光の「贈接封大夫陳其湘二十韻」という詩のなかに「扶桑在何許 爲指日邊花」(扶桑はどこにあるか、東のかなた、太陽のそばに咲く花を指さされた)という句がある。「太陽のそばに咲く花」、仏桑花はまた徐葆光でもある。康熙帝に使わされ、その康熙帝という太陽に認められて咲く花でもある。

三句目の十日というのは、やはり『山海経』の十個の太陽だろう。「海外東経」に「下に湯谷がある。湯谷の上に扶桑がある。ここで十個の太陽が浴みをする。黒歯国の北に位置している。水の中に大木があり、九個の太陽は下の枝に、一個の太陽が上の枝にいる。『山海経』(海外東経)」と十個の太陽の事があり、それを踏まえている。

四句目は努力の甲斐もなく、一日花となってすべて無になって萎んてしまうのか、そんな黄昏はなんとも恐ろしいと結ぶ。「太陽のそばに咲く花」という「陽」のイメージと、一日花となる翳り、「陰」のイメージが重層的に交差し、不安の重低音に触れていくという構成となっている。

写真は木槿(左)と芙蓉(右)。
むくげ1ふよう2

中山秋思     中山での秋の物思い
是處樓能接大荒  至る所の建物は荒涼とした野原につながっている。
闌干一倚便斜陽  手すりに寄りかかったら夕日が目に入る。
只聞鷹背西風急  ただ鷹の後ろから秋の風の激しい音が聞こえてくる。
不見籬邊野菊黄  竹垣の辺りには黄色い野菊は見えない。
木槿榮時先怯晩  木槿(むくげ)が咲くと、まず時間が遅くなったのにおびえる。
芙蓉醉裏可知霜  芙蓉がきれいになると霜が降りることが分かる。
洞簫何與銀蟾事  洞簫(どうしょう)は月夜に鳴らしてはどうか。
乍按珠光已過墻  まばゆい光を手で押さえたところ、その光はすでに塀を越えている。

冊封使の宿舎にあてられた天使館あるいはその周辺の久米村、辻あたりの景色か。冊封副使・徐葆光の日常の起居の場は停雲楼である。天使館図の西側(左手)「停雲」がそうである。正使はその右にある「風長」楼である。天使館図では、入口の二つの竿の上に「冊封」の黄旗が掲げられているのがわかる。尚貞王の冊封副使・林麟焻が起居し、その楼を「停雲」名付けた。「風長」は正使・汪楫が名付けた。徐葆光が訪れた時は時が経過し、楼の門戸に掲げられていた「停雲」の扁額は失せていたため、徐葆光は「停雲」と題字し、かつ二首の詩を書いた。尚貞王の冊封使(正使・汪輯、副使・林麟焻)の来琉は1682年~1683年である。

停雲樓     停雲楼
身似孤雲復此停 はぐれ雲のような私は、やはりここ琉球にいる。
樓頭舉目海天青 楼(停雲楼)の上から見上げると、青い海と空が見える。
行人舊蹟今何在 使者の行跡は今どこにあるのだろうか。
鴻爪從來偶一經 白鳥の残した足跡のように、最初にたまたま一度できただけである。

停雲靄靄覺身孤 止まっている雲が立ち込めるさまを見て、身の孤独を覚える。
盡日流觀山海圖 終日、山海図のような景色を見渡す。
一出隨風栖絶島 ひとたび故郷を出て風に随い、遠く離れたこの島にやってきた。
無心也憶故山無 意識せずとも、故郷にいないことを思う。

遠く離れたこの島にやって来て、この停雲楼の楼上で故郷の親や家族、友人を思っているというのが主情だが、琉球にやってきてほどなく(6月1日那覇港着)、季節は夏、停雲楼から見上げると、青い海と空が見える。しかし、それはどこか物悲しげである。先の冊封使たちが揮毫し、掲げられた扁額も失われてないことに、冊封使として来流したことに対する一抹の不安やむなしさのような思いが交差しているようにも見える。

徐葆光は来流する前年の1718年に蘇州に立ち寄り、70歳の母の誕生日を祝っている。蘇州に住む母は一番下の弟に預けて、長男である徐葆光は北京で任官している。痩細った体の弱い妻も気になる。徐葆光は冊封副使を拝命し、冊封使という役目はそれら諸々の思いも抱えたまま、はぐれ雲のように海東の琉球の島に辿りついたのである。往復の旅程約8000キロ。北京の北方180キロメートルにある熱河行宮(避暑山荘)で康熙帝に復命のため拝謁した様子を徐葆光は感動に満ちた筆致で描写している。琉球での体験が徐葆光にとって貴重なかけがえのないものだったことは『中山伝信録』や『奉使琉球詩』、程順則等々との人的交友の様を見てもわかる。この詩は来琉して間もない心情の揺れを留めているともいえる。

写真は天使館図(徐葆光『中山伝信録』所収)。
天子館aaa

「中山秋思」をひも解くのに「停雲楼」から書き起こしたが、季節は夏から秋へと移っている。「子夜」「鷹來」「九月八日作」「偶成」「中山秋思」「院中叠小山作」「小東軒」「效山谷體贈建寧翁山人長祚」「九日石筍崖登高與翁長祚黄子雲同作」はひとくくりにして理解した方がいいかも知れない。それに続くのが「子夜歌(十二首)」となる。九月八日あたりから九月九日(重陽節)前後あたりの詩群か。「子夜歌(十二首)」は次回に触れる。

「中山秋思」の一句目。「是處樓能接大荒/至る所の建物は荒涼とした野原につながっている」は「停雲楼」を中心とした天使館、東・北・西の三面を林に固まれた久米村周辺と、辻町、西の海あたりの景が思い浮かぶ。現在の景は徐葆光の見た景とはだいぶ違っている。まず明治、大正年間に「西の海」、「東町」「泉崎」に湾入していた海岸部が埋め立てられ、海中の小岩の島だった「仲毛」が陸化し、「仲島の大石」も陸封されてしまう。戦後1952年から開始された「那覇市区画整理事業」は史跡、名勝を無視して敢行され、かつての名残を無残に消し去ってしまった。あげるときりがないが、「上の毛」や「雪崎」「辻原」「上之蔵」も削り取られ、「三重城」から「波之上」にかけての海岸線、また、「雪崎」から泊の「兼久の浜」一帯も埋め立てられた。「潮の崎」「灰焼屋」「アカチラ」が消え、「夫婦岩」も陸封された。「御物域」から「南明治橋」、「落平」から「ガーナー森」、「国場川河口部」やその一帯の海岸線も失せてしまった。現在もほぽ平坦な久米の周辺には松山公園、旭ケ丘公園、三文珠公園の丘が東・北・西に点在してある。かつては面的に松山公園、三文珠公園あるいは辻原、そして西の海との間に展開していた景があった。徐葆光はそれを「荒涼とした野原」という心象風景としてとらえた。

下図では、①=天使館(徐葆光たちの滞在所)、②=「仲島大石」、③=仲島蕉園跡、④=仲島小矼跡(ナカシマグムイアト)、⑤=渡地村、⑥=荒神堂、⑦=住吉の森、⑧=儀間村、⑨=湧田村、⑩=泉崎橋
天使館周辺

二句目。「闌干一倚便斜陽/手すりに寄りかかったら夕日が目に入る」は西の海の夕日を見ているととれる。三句目の「只聞鷹背西風急/ただ鷹の後ろから秋の風の激しい音が聞こえてくる」。「鷹來」の詩の中で「鷹が来たのに雁と見間違ってしまった」とありサシバの飛来を告げている。三句目の「鷹の後ろから秋の風の激しい音が」ということで、時間の経過を重ねている。同じく「鷹來」の一句目で「九月になると黄色い花(菊)がひっそりと咲く」と告げ、「中山秋思」の四句目の「不見籬邊野菊黄/竹垣の辺りには黄色い野菊は見えない」と重ねて、昼間の時間が短くなっていくことに掛けていって、一日花の木槿と芙蓉に心情を流し込んでいく。

五句、六句目の「木槿榮時先怯晩/木槿(むくげ)が咲くと、まず時間が遅くなったのにおびえる」「芙蓉醉裏可知霜/芙蓉がきれいになると霜が降りることが分かる」と、一日花として木槿、芙蓉を見ている。木槿は2、3日楽しめるのもあるが一日花としてここではくくられている。徐葆光は白氏文集の「松樹千年終是朽 槿花一日自成栄/松の木は千年の齢を保つがいずれは朽ち、木槿の花は一日の命だがその生を大いに全うする」も踏まえているととれる。朝咲いて夕方にはしぼむ一日花の芙蓉と木槿は似ているので、葉で見分けがつく。写真みてわかる通り、木槿の葉は花より小さい。芙蓉の葉は花と同じぐらいの大きさ。

七句目の「洞簫何與銀蟾事/洞簫(どうしょう)は月夜に鳴らしてはどうか」は「子夜」の一句、八句目とも呼応する。それは「夜中の高楼の中で碧玉製の簫を聴く」「嫦娥(じょうが)がか細い手で招いてくれるのを信じてはいけない」とある。嫦娥、銀蟾(ぎんせん:月に住むガマガエル)は月の異名としてつかわれたり、月に住む憂愁の美人として嫦娥を詩に読み込んだりする。八句目の「乍按珠光已過墻/まばゆい光を手で押さえたところ、その光はすでに塀を越えている」は天使館の塀を越えてのびる、西の海の夕日が短い昼を閉ざそうとして「すでに」深くのびているという、一日花への心情を重層的な畳み掛けているととれる。

「效山谷體贈建寧翁山人長祚」「九日石筍崖登高與翁長祚黄子雲同作」と詩は続く。九月九日の重陽の節に何故徐葆光は「翁長祚」「黄子雲」と波の上で夕日をながめ一緒に詩を作ったのか。本来なら七宴のひとつ「重陽の宴」に招かれているはずである。実はこの年の冊封の七宴の開催日を確認すると次のようである。

◇康熙58年(1719年)冊封七宴◇
第一宴の諭祭宴が 6月26日
第二宴の冊封宴が 7月26日
第三宴の中秋宴が 8月20日
第四宴の重陽宴が10月20日
第五宴の餞行宴が11月 1日
第六宴の拝辞宴が11月10日
第七宴の望舟宴が12月26日

第三宴の中秋宴も本来ならば8月15日の月に合わすはずだが、この年は雨のため15日開催を順延して20日に中秋宴を開催している。重陽宴が9月9日から10月20日にまで延期されたのは、例の評価(ハンガー)事件の決着の見通しがたたなかったためといえる。評価(ハンガー)事件のなりゆきでは重陽宴含めてその後の展開が読めない事態も考えられた。御冠船の場での玉城朝薫の組踊が初演されるには評価(ハンガー)事件を乗り越えるという難産があった。「中山秋思」をはじめ評価(ハンガー)事件の見通しのたたないこの時期の徐葆光の心情の陰の部分には、ままならぬ評価(ハンガー)事件が影を落としているとみることもできる。

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