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長嶺グスク、仲間(クニンドー)グスク ①

長嶺グスク周辺

組踊『未生之縁』ゆかりの保栄茂(びん)グスク、平良グスクを訪ねた。保栄茂按司の娘・玉の乙鶴と平良グスクの若按司・鶴千代は親同士の竹馬の友だった。その縁もあって生まれる前から親同士で縁組(未生の縁)が取り交わされていた。また、ふたりはその「婿猶子」の縁組を大事に育んでいた。平良按司は後妻を迎え産子(なしぐぁ)・饒波の比屋が生まれる。後妻(継母)は、継子(鶴千代)につらく当たり、毒を盛って失明させる。乙鶴との「婿猶子」の取り交わしを解消させ、産子・饒波の比屋に跡目を継がそうとするが、乙鶴は親の決めた生まれる前からの「婿猶子」は、未生の縁だとして断る。継母はならば失明した鶴千代を生きたまま八重瀬の淵に捨てる画策をする。しかし、ふたりに降りかかる困難も、ふたりの信じ合う心で道を開き、最後には結ばれるという物語。

下の写真は保栄茂の集落と背後の保栄茂グスク。
保栄茂グスクx1

那覇市の山下交差点から海軍壕、豊見城城址公園向けに伸びるのが県道7号線。小禄北交差点で旧道(豊見城城址公園)、と7号バイパスとに分かれる。旧道とバイパスは上田交差点手前で合流する。すると前方高台の丘陵が目に飛び込んでくる。高良座波名丘陵帯である。向って左端一帯が平良グスクである。上田交差点を直進し平良大橋を過ぎると、那覇空港自動車道豊見城インターの入口がある。さらに直進をしていくと豊見城団地入口を越えたあたり右手の丘陵が目に入る。保栄茂翁長丘陵帯である。豊見城運動公園の交差点を過ぎて三つ目の信号を右折していき保栄茂部落をめざす。集落右手奥の丘陵が保栄茂グスクである。標高約60メートルという保栄茂グスクの頂上は小さく開けた岩場である。八重瀬、真壁、島尻大里城(南山城)、瀬長島、高嶺、そして渡橋名と俯瞰できる。瀬長島の西の海には慶良間の島々が見渡せる。ひとつ隔てた北側の丘陵が平良グスク(約109メートル・豊見城市内最高所)で、谷を隔てて向き合うようにある。平良グスクから北方に漫湖を見下す位置に豊見城グスク(約54メートル)があり、漫湖に沿って東方に、識名台地の上間と向かい合うように長嶺グスク(約98メートル)がある。保栄茂グスクは保栄茂按司が治めていたとされる。グスクの発掘調査では住居跡、陶片なども出土していて、単なる聖地だけではないことも確認されている。中山、南山対立時代には南山の出城的位置付に、中山の勢力下では島尻大里勢に対する押えにと、その地理的位置が活用されていたことが伺い知れるグスクでもある。
 『豊見城村史(1964年刊)』によれば、三山時代、中山に対峙する第一線の拠点である瀬長、豊見城、長嶺の各グスクに対し南山グスクからの中継地としての役割をもつ出城としてとらえられている。保栄茂(びん)グスク、平良グスクについては『平敷屋・友寄事件の周縁⑥』~未生之縁(保栄茂グスク、平良グスク~)でも書いたので参照願いたい。

下の写真は保栄茂グスクからの眺望。
保栄茂グスクx2

下の写真は保栄茂グスクより平良グスクを望む。右端のエリア一帯。
平良グスクx1

首里城(中山)に対する豊見城グスク、長嶺グスクが城として最前線とすると平良グスク、保栄茂グスクは後方の中継的な位置づけなのかと想定はできる。城としてのグスクの機能は三山統一後塗り替えられていくが、御嶽としてのグスクは祭祀の中に保存されてきた。瀬長島は、豊見城発祥の地といわれるが、それに近接する珠数森(ずずもり)も雨乞いの竜宮神を通したつながりが深い。珠数森(ずずもり)が干潟の方へのびるこの小丘群の麓に竜宮神がある。そこがウフアチャーメーと伝わっている。『琉球国由来記』(1713年)に「雨乞い」の祭祀の記述がある。那覇の上天妃宮にある龍王像を豊見城城内にある豊見瀬嶽に安置し雨乞いを行い、その翌日より豊見城間切り内の各御嶽でも雨乞いを催し、最終日に珠数森(ずずもり)の「珠数大アスメ」での雨乞いを行う。豊見城間切の各ノロや役人打ち揃っての雨乞いとなる。そのことが『琉球国由来記』に記されている。鍋に潮を汲み、大アスメにかけ、その鍋を保栄茂ノロが頭に載せて7回廻って雨をよんだのである。この珠数森一帯に残されている保栄茂墓や按司墓をみると保栄茂(びん)との関係が強いことがわかる。また、豊見城の発祥と祭祀の流れも垣間見える。豊見城城址には「沖縄空手会館」がある。

下の写真は、豊見城址内に建築された沖縄空手会館。左手奥に見えるのは特別道場(守禮之館)。
空手会館x

漫湖沿岸に面した丘陵に豊見城グスクはある。豊見城の丘陵を確認していくとおおよそ次の図のようになる。

①真嘉部(まかぶ)丘陵帯(長嶺グスク~真玉橋)
②高入端丘陵帯(長嶺グスク~饒波・高安)
③良長丘陵帯(長嶺グスク~金良)
④宜保名嘉地丘陵帯(宜保~名嘉地前原)
⑤豊見城志茂田丘陵帯(豊見城~田頭)
⑥高良座波名丘陵帯(高良~平良~上田~渡嘉敷~渡橋名~座安~伊良波)
⑦保栄茂翁長丘陵帯(保栄茂~翁長)の7つである

保栄茂グスクを擁する⑦保栄茂翁長丘陵帯(保栄茂~翁長)。平良グスクを擁する⑥高良座波名丘陵帯(高良~平良~上田~渡嘉敷~渡橋名~座安~伊良波)。中央丘陵部は海軍壕公園を基点に西および南に連なる④宜保名嘉地丘陵帯(宜保~名嘉地前原)、⑤豊見城志茂田丘陵帯(豊見城~田頭)である。それら丘陵から西の海へと広がる穀倉地の志茂田原の低地がある。志茂田原と接続する珠数森(ずずもり)はかつては小島であった。目を北から東に転じれば長嶺グスクのある①真嘉部(まかぶ)丘陵帯(長嶺グスク~真玉橋)があり、景勝地、嘉数高台のある②高入端丘陵帯(長嶺グスク~饒波・高安)、南へのびる③良長丘陵帯(長嶺グスク~金良)と連なっている。真嘉部、高入端丘陵帯、良長丘陵帯を饒波川と長堂川が取り巻くようにして漫湖に注いでいる。

下の図豊見城の丘陵位置。
豊見城地形bbbaaa
図の①真嘉部(まかぶ)丘陵帯(長嶺グスク~真玉橋)。②高入端丘陵帯(長嶺グスク~饒波・高安)。③良長丘陵帯(長嶺グスク~金良)。④宜保名嘉地丘陵帯(宜保~名嘉地前原)。⑤豊見城志茂田丘陵帯(豊見城~田頭)。⑥高良座波名丘陵帯(高良~平良~上田~渡嘉敷~渡橋名~座安~伊良波)。⑦保栄茂翁長丘陵帯(保栄茂~翁長)

長嶺グスクを目指して真玉橋側から入る。県道11号線を豊見城方面に南下し「嘉数入口」を左折すると左手に、真玉橋の古い先祖を祀ったと伝わる拝所、「仲間世」(なかまゆー)の碑がある。真玉橋村落の最初の祖先が居住した「仲間世」(なかまゆー)時代の地といわれている場所は、「嘉数バンタ」下方の傾斜地といわれる。もとの碑は30メートルほど上方にあったといわれる。真玉橋村落の「移転記念冊子」には「1522年に木橋が架けられた時代は、俗に仲間世といわれる時代で、1708年の石橋建造時代は“真玉橋古島”が形成され、さらに時代を経て魚介類も豊富で、農耕にも適した現在地周辺に移動して村づくりがなされたと推測される」とある。

仲間世1

「仲間世」(なかまゆー)の碑からさらに坂を登っていくと右手に嘉数公民館脇のガジュマルが目に飛び込んでくる。ガジュマルの周辺には「頭数の神」「ムラ御嶽」がある。ガジュマルは「おきなわの名木百選認定木」(認定番号九十五)である。

頭数の神

ムラ御嶽

ガジュマル嘉数       上の写真は嘉数公民館のガジュマル。

さらに坂を登りつめようとするあたりに「つぼみ保育園」の標示にゆきあたる。その裏手あたり一帯が長嶺グスクとなる。ちょうど嘉数集落と長堂集落の境あたりに位置している。標高98メートルの丘陵に築かれている。「つぼみ保育園」手前の道を左に折れて、「嘉数配水池」のタンクを目指していけば、「つぼみ保育園」の裏手にでる。その裏道は尾根伝いに長嶺グスクにのびている。

嘉数配水池上の写真は嘉数配水池。

長嶺グスク上の写真は嘉数配水池からのびる長嶺グスクへの道。右手の建物は「つぼみ保育園」。

長嶺グスク案内プレート上の写真は長嶺グスク頂上部への登り口にある案内プレート。

案内プレートには次のように記されている。

◇長嶺グスク(長嶺城跡)
 長嶺グスクは、字嘉数と字長堂の境に位置し、標高98メートルの丘陵上に形成されたグスクである。
 『豊見城村史(1964年刊)』によれば、長嶺按司の居城として南山の第一線として備えたとあり、グスクの頂上部付近を「ウフヤックヮ(物見)」、その東側がデーグスクと称され、グスクの台所があったところだと伝えられている。そのほか、グスクの内には『琉球国由来記(1713年)』に記載された「長嶺之殿」や「按司墓」などがある。
 グスクの石積みはこれまで確認されてないが、伝承として真玉橋の石橋に使用されたという話が残されている。
 グスク一帯から、グスク系土器、鉄製の矢じり、中国製の青磁、白磁等が出土している。また、沖縄では産出されない滑石(かっせき)を混入した土器が出土していることから、九州との交流が直接、間接的に存在していた可能性がうかがえる。
 仲間按司との紛争では、長嶺グスク城下での戦いに敗れ、馬で敗走した長嶺按司がグスク内の井戸に馬もろとも身を投げ自害したように見せかけ、その後落ち延びたとの伝説が残されており、南風原町津嘉山では長嶺按司の霊を慰めるため長嶺グスクを遥拝するアミシの御願の由来ともなっている。
 長嶺グスクの成立および活動時期は14~15世紀に位置づけられるものと推測される。
 長嶺グスクに関連する伝承としては他にも、尚金福王(1450~53年)の時代に長嶺按司陵正という人が、中国に渡って砂糖製造法を習い受け、琉球に帰国後あまねく周辺に製糖を教え広めた、との砂糖製造の始まりに関する伝承が残されている。
(豊見城市教育委員会。平成25年5月)

真玉橋が石造橋となったのは1708年(尚貞王)のことなので伝承も頷けるものではある。

⇒ 次回は仲間グスク(クニンドー)

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