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長嶺グスク、仲間(クニンドー)グスク ②

長嶺グスク立地

下の図豊見城の丘陵位置。
豊見城地形bbbaaa
図の①真嘉部(まかぶ)丘陵帯(長嶺グスク~真玉橋)。②高入端丘陵帯(長嶺グスク~饒波・高安)。③良長丘陵帯(長嶺グスク~金良)。④宜保名嘉地丘陵帯(宜保~名嘉地前原)。⑤豊見城志茂田丘陵帯(豊見城~田頭)。⑥高良座波名丘陵帯(高良~平良~上田~渡嘉敷~渡橋名~座安~伊良波)。⑦保栄茂翁長丘陵帯(保栄茂~翁長)

 長嶺グスクの地理的な立地については、「長嶺グスク仲間(クニンドー)グスク」①で書いた。「長嶺グスクのある①真嘉部(まかぶ)丘陵帯(長嶺グスク~真玉橋)があり、景勝地、嘉数高台のある②高入端丘陵帯(長嶺グスク~饒波・高安)、南へのびる③良長丘陵帯(長嶺グスク~金良)と連なっている。真嘉部、高入端丘陵帯、良長丘陵帯を饒波川と長堂川が取り巻くようにして漫湖に注いでいる。」と図で示して置いた。
 長嶺グスクの石垣は取り崩され、石造橋となった真玉橋に使用されてという伝承が残っている。現在グスクには『琉球国由来記(1713年)』に記載された「長嶺之殿」、「按司墓」などがある。

下の写真は長嶺按司之墓。
長嶺按司之墓

下の写真は長嶺按司之碑。「天孫子二五代英祖二男湧川之主ツナギ 長嶺按司嫡子長嶺カンジヤー久高生」と刻まれている。
長嶺按司の碑

下の写真は長嶺之殿。ソテツの下方。香炉が三つある。
長嶺之嶽

長嶺按司とは

 長嶺グスクゆかりの長嶺按司とはどういう人物なのか、についてはよくわからない。「尚金福王(1450~53年)の時代に長嶺按司陵正という人が、中国に渡って砂糖製造法を習い受け、琉球に帰国後あまねく周辺に製糖を教え広めた、との砂糖製造の始まりに関する伝承が残されている」(『豊見城村誌』1964年刊)とある。
 尚巴志の三山統一のとらえ方にも諸説あって、特に南山(山南)の歴史は空白が多い。按司の勢力争いの中で、小国家としてまとまっていたのが南山といえた。そこに傑出した按司がいたわけでなく、按司の勢力バランスで南山の政治動向は決まっていった。細切れの間切が多いというのも按司の乱立の痕跡のように写る。佐敷から出た尚巴志の王国の編成作業の中で、例えば知念・佐敷・島添大里・南風原・首里を結ぶラインがひとつのブロックとしてあったとすれば、豊見城・兼城・島尻大里・真壁・喜屋武・摩文仁(下島尻の東部)、玉城・具志頭・東風平(下島尻の西部)を三山統一期の南山ブロックとする捉え方もある。その期の長嶺グスクは豊見城グスク同様、首里と対峙する南山勢の先端に位置していた。国場川の支流、長堂川を挟んで対峙していたのは仲間グスクといえた。
 首里城は首里台地にあり、その南方は金城川(安里川)を挟んで、識名台地がある。その南端の上間と対峙するように長嶺グスクのある真嘉部(まかぶ)丘陵帯がある。国場川を挟んだ識名台地、上間の存在は首里攻防の要ともいえた。

下の写真は長嶺グスク入口。。
長嶺グスク入口jpg

下の写真は長嶺グスク頂上への登り口。
長嶺グスク頂上への登り口

下の写真は長嶺グスク。南側より。
長嶺グスク南側よリ

 長嶺グスク、長嶺按司に関する伝承は多々ある。グスクの歴史と複数の長嶺按司の歴史が多層化されて残っていると理解できる。『長嶺按司之碑』に「天孫子二五代英祖二男湧川之主ツナギ 長嶺按司嫡子長嶺カンジヤー久高生」とある。英祖王統系であり、久高の生まれとしているのは如何にも編集された痕跡を思わせる。英祖王統を経由して天孫氏に到達する系統にあることを示そうとしている。もうひとつ大事なのは「カンジャー」という、鍛冶屋との関連性を示唆している点である。鉄と関わり、地域の鉄を支配していた有力者として読み解くことはできる。碑の文面からは、奥間大親~奥間カンジャーにまつわる鉄~鍛冶屋をめぐる説話のパターンに準じた編集をみてとれる。
 そこいらは、「金満(カニマン)御嶽・宮」というブログでも書いたが、少し補足しながら引用しておく。
「鍛冶屋由来の御嶽にまつわる話は多い。それは鉄を支配したのが権力を握った琉球の歴史も反映している。第一尚氏王統を築いた尚巴志には宝刀を売りヤマトの商人から鉄を買い、それで農具をつくり農民に与えたという説話があり、その前の察度王統を築いた察度にも奥間大親めぐる同様の話があり、勝連の阿麻和利の家臣も奥間カンジャーから鍛冶を学んだと伝えられている。第二尚氏王統の尚円が金丸時代に奥間カンジャーに助けられた話は、琉球古典音楽『かぎやで風節』の由来とともによく知られている。」
 久高の生まれとしたのには幾つかのことがふくまれているととれる。ひとつには久高島の屋号大里は、島添大里按司の長男が元祖という伝えがある。それと連結させていくと、南山の系であると示唆しているともとれる。あるいは久高島~アマミキヨ~ヤハラヅカサ~浜川御嶽~ミントングスク~天孫氏という、出自に関する物語祖形に接続しようとする意図がうかがえる。

下の写真は真玉橋よりみた長嶺グスク一帯。
長嶺グスク真玉橋より

長嶺按司陵正と砂糖製造

 頂上に昇ってみる。石灰岩の台地は小さくて狭い。屋敷を構えてというより小さな物見やぐらの造営がやっとである。物見台(うふやっくゎ)は頂上、関連施設(台所等)はその周辺、按司の屋敷はグスクに近接した平地に造営されたかも知れない。長嶺グスクの本格的な発掘調査を待つしかない。頂上からは長嶺グスクが長堂川と、長堂川が注ぎ込む国場川の合流域を押えるようにある。豊見城グスクは饒波川と、饒波川が注ぎ込む国場川下流域を抑え込む位置にある。長堂川を隔てて対峙していた勢力は仲間グスクを中心とする津嘉山(つかざん)勢である。長嶺グスクが合流域を挟んで対峙していたのは識名台地、上間勢であった。とりわけ仲間グスク勢との対峙は、三山統一へのぶつかり合いとともに、長堂川、国場川をめぐる河川の権益をめぐる争いが根にあったといえる。
 長嶺按司の名がわかるのは、尚金福王(1450~53年)の時代に長嶺按司陵正である。尚金福王は長虹堤(1451年)を、国相の懐機に命じて築造させた。長虹堤は、崇元寺から松山のイベガマ(チンマーサー)に至る約1キロメートルの海中道路である。長虹堤により首里~那覇港が直結された。那覇港も整備がなされ、那覇の港は第一尚氏の完全掌握する港となった。長虹堤は冊封使一行の船団を迎える那覇の港と首里城を結ぶ要路であった。那覇の港から首里かけて、冊封使に関連する諸施設を整備、やがて王国最大の東市場(ヒガシマチ)を形成していった。
 この時期どのようにして明国へ渡り、砂糖製造を学んだかは不明。それがどのような製造法であったかのか、儀間真常が産業化した製造法との差異はどうなのか少し整理しておきたい。

下の写真は長嶺グスクを取り囲む崖面に点在する古墓、拝所。
拝所1

下の写真は長嶺グスクを取り囲む崖面に点在する古墓。「長嶺村安座名ヌール」と読める。
ヌール墓

砂糖製造を巡って

 琉球王府の田地奉行の職にあった儀間真常(1557年~1644年)は、直接明国に渡り製糖技術を学んだのでなく、儀間村の者を遣わした。尚豊王(1621年~1640年)の時、1623年の天啓葵亥(みずのとい)の年の進貢船で閩(ビン)にゆき、砂糖の製法を習得させたのである。明朝末期、1637年には産業技術書の名著『天工開物』(宋応星)が刊行される。『本草綱目』や『農政全書』とともに中国の代表的な産業技術書で、日本にも多大の影響を与えた。
 ただ、製法習得の際にはまだ『天工開物』は刊行されていない。儀間村の者達は、現実に行われていた現場の技術を持ち帰って普及したと想定できる。『天工開物』は当時行われていた産業技術を編集したものなので、その本で示されている「二転子三鍋法」を習得していたことがあとづけできる。
 牛や馬などで木の心棒を回転させ、その運動を歯車で2連のローラーに伝え、その回転するローラーの間にサトウキビの茎を差し込んで圧迫粉砕する。こうして搾り出した汁を煮詰めて、砂糖に加工にする圧縮技術である。沖縄でサーターグルマ(砂糖車)として目にしてきたものの初期型である。木製円柱2本式を改良して3本にしたのは真喜屋実清といわれる。1671年のことである。これでサトウキビの茎を同時に2本差し込んで圧迫粉砕することが可能となった。さらに木製円柱を石製としたものへ改良された。1820年代に、首里の饒平名の発明とある。明治に入り鉄製のものとなった(1882年)。
 真喜屋実清(1647~1696)は真喜屋親雲上実継の長子。真姓(真喜屋家)の5世。1691年羽地間切真喜屋地頭職に任ぜられた。

 以上は、儀間真常の円柱式のサーターグルマが、産業技術として製糖技術に画期的な革新をもたらしたのはわかる。王府は1646年に初めて薩摩へ砂糖を送り、王府内では1662年に砂糖奉行を置き生産管理体制を整えていく。
 長嶺按司陵正は尚金福王(1450~53年)代に、どのような技術を南京から学んだのかは不明である。明への渡航方法も不明である。もし圧縮技法に絡むものであるとしたら、李氏朝鮮の『李朝実録』の1461年の項に、「南蛮酒と間違えて糖蜜を献上した」との記述を思い起こす。尚泰久の使者の記録から、圧搾法は「2寸の長さに刻んだサトウキビを臼と杵で搗き砕き、布に包んで搾る」ということが見えるので、これに近い方法だったかも知れない。
 南蛮酒と間違えてとあるから、固形ではなく、糖汁を煮つめ濃縮し、結晶分を含んだ液状糖様なものであったかも知れない。長嶺按司陵正は固形糖である黒糖(含蜜糖)の製造法を習得したのか、あるいは液状糖だったのかの、その境あたりの技術なのかと想定できるが、明確な断定はむつかしい。
 長嶺按司陵正については、砂糖を日本国に密輸し儲けたが王府の知る所となり、八重山に流刑になったとも、流刑は替え玉だったという伝承がある。長嶺按司陵正については「長嶺元祖由来記」が伝承源となっている。

 仲間按司との紛争については次回整理していく。


『天工開物』は日本の産業技術を変えて行った。「天工」は造化の巧み(自然の業)、「開物」は人間の巧みの意。
◇東洋文庫の『天工開物』(宋應星・著/薮内清・翻訳)が入手しやすい。

下の写真は『ナガンミヒージャー(長嶺樋川)』。
ナガシミヒージャー

下の写真は長嶺グスク近辺から髙津嘉山とその右隣の小丘にある仲間グスクあたり。
高津嘉山

下の写真は長堂川に架かる山垣橋と長嶺グスクの眺望。
山垣橋

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長嶺グスク仲間(クニンドー)グスク ②
長嶺グスク仲間(クニンドー)グスク ①

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