1万人のエイサー踊り隊

2013-08-04


第19回となる2013夏祭りin那覇「一万人のエイサー踊り隊」が8月4日、那覇市の国際通りで開催された。那覇市立若狭図書館にしかない図書を借りにいって、辻をまわって国際通りで「一万人のエイサー踊り隊」に出くわしたのでそのまま最終まで観てしまった。

創作エイサーがあって、青年エイサーと続いた。伝統エイサーを主体とした青年エイサーもみものだが、創作エイサーも楽しい。太鼓演舞なのかエイサーなのかの論議はさておいて小さい子が太鼓のリズムに楽しく親しむのは観ていても楽しい。駐留米軍関係の家族連れも結構多い。コザのエイサーを観なれているのだろうか、会話を聞いていると結構通な解説を子どもにしている親がいた。内地からの観光客よりじっくり楽しんでいる様子で、結局最終まで日焼けで背中あたりまで真っ赤にしながら観ていた。アメリカの人に沖縄の太鼓のリズムがどう響くのかよくわからないが、彼らのちいさい子が「イヤサッサ、ハイヤ」と囃すのを聞いていると音楽というものの本質をみている気がした。

かつては那覇市の市街地の中心にあって賑わっていた商店街も、郊外型大型店舗やおもろまち新都心のあおりでドーナツ化現象を進行させてきた。これをくいため、国際通りを活性化させようとはじめられたのが起こりという。かつては「奇跡の1マイル」といわれた国際通りをはじめ、那覇の街の活性化の施策として位置づけられている。

現在、実施者は「那覇市国際通り商店街振興組合連合会TMO」となっている。2006年の「中心市街地活性化法」の見直しでTMO(タウンマネジメントオーガナイゼーション)手法の強化が盛り込まれた。活性化をめぐるさまざまな利害のマネジメント力がないと機能していかないのがTMOの弱点といわれたが、「一万人のエイサー踊り隊」の推移を見ていると成功例として定着したのかと思うが内実はどうだろうか。

国際通りの名前の起こりはアーニー・パイルという、1944年にピューリッツァー賞を受賞したアメリカの従軍記者に由来する。第二次大戦時のアメリカを代表する従軍記者のひとり。従軍中伊江島で日本兵に狙撃され戦死した。伊江島にはアーニー・パイルの碑がある。GHQは東京の東京宝塚劇場を接収し、強制的に「アーニー・パイル劇場」へ改称した。観客として日本人の立ち入りは禁じられた。沖縄では実業家の高良一氏が米国軍政府から正式に認可を貰い、沖縄戦後初の常設映画館として「アーニーパイル国際劇場」を建てた。ちょうど現・那覇市ぶんかテンブス館前にあたる。興行認可第一号の映画館として、高良一氏としては認可を得やすくするためにアーニー・パイルを持ち出したかも知れない。当時の繁華街は壺屋から開南神里原通りで、まだ国際通りににぎわいはなかったが、やがて「アーニーパイル国際劇場」が現在の国際通りの名称の元となったといわれる。

「一万人のエイサー踊り隊」を観る前に、那覇市立若狭図書館を後にして、牛マジムンの話が伝わる唐真森(トゥーマムイ)に寄ってみた。そこは辻の聖地でもある。若狭地区には幽霊、マジムン(魔物)の類の話が多く伝わっており、牛マジムンもそのひとつ。もうひとつ紹介しておくと、大村御殿(ウフムラウドン)の角に現れた耳切り坊主(ミミチリボージ)の原型というか、元という話も伝わっている。さて、牛マジムンだから牛の魔物だが、凶暴な妖怪であった。夜道で人につっかけてはねとばしたり、崖から人を落としたり、その凶暴さで恐れられていた。全島に似たような話は流布している。その牛マジムンが武道の達人だった鄭大夫(ていたいふ)に戦いを挑む。夜、鄭大夫が名前を呼ばれて外に出ると、真っ赤な目をした牛マジムンがいた。ふたりは朝方まで取っ組み合いを続けるが、やがて牛マジムンは岩になった。その岩が鄭大夫岩として残っている。鄭大夫は中国から渡ってきた久米三十六姓の末裔といわれる。久米と辻とは隣接している。久米に伝わった中国南拳の使い手だったのだろうか。沖縄の空手の中には久米経由の手が伝わっている。下の写真。

それを18世紀初期に編纂された『遺老説伝』の20話でみていくと次のように岩のことが記述されている。

久米村の地に一神岩有り。至霊至感にして祈りて応ぜざるは莫し。人皆石を運びて築堆し、四面に垣をつくり、以て神獄と為す。是れに由りて本国の人中華に赴く時、必ずこの獄において福を祈る。故に之を名づけて唐守獄と曰ふ。(中略)未だ何の世にして建つるやを知らず。

御嶽の由来を記している。鄭大夫岩は久米の人たちにとって困難な渡海の無事安全の祈願の対象としてあがめられていたことが知れる。御嶽の成り立ちの上で鄭大夫岩が聖なるものの顕現として宗教現象の説話のひとつに牛マジムンを封じた聖なる力を鄭大夫に被せている。牛マジムンを封じたのが久米ゆかりの鄭大夫とすることでとりわけ久米系、あるいは冊封ふくめて渡琉してきた中国人たちの祈願の聖地として位置付けたのだろう。沖縄の御嶽は日常的なもの、例えば木や石といったものに聖なるものが現れたとしてあがめる。沖縄の御嶽信仰では日常的な空間は均質ではない。御嶽の空間は聖なる空間の裂け目として世界の中心軸として宗教的に体験される。

この旧料亭松乃下の横に広がる唐真森(トゥーマムイ)もかつての森の面影はなく小さな丘がかろうじて残されている。終戦後、泊埠頭の埋め立て用土砂のため米軍に切り崩されたのが大きい。それでもまだ解明されていないものが多く残されている。龍の石像がどこか愛らしい鄭大夫岩から少し下ると辻の開祖ウミナイビの御嶽(ウタキ)がある。

   花の代 ウトゥダルㇴメー 

   花の代 マカドカニㇴメー

   花の代 ウミチルㇴメー 

辻の成り立ちには諸説あり確定はしていないが、ひとつには首里のウミナイビ(皇女または高貴な女性)たち三人が陵辱され、辻にとどまり開祖となったという話がある。その三人を祀った御嶽の写真である。あらためて辻については書いていくが、昔はこのあたりは墓の領域でうら寂しい森だったことは確かだ。唐真森にもよく幽霊が出た。辻のジュリ(遊女)たちの幽霊が出たとされるが、幽霊とは呼ばれずにマジムン(魔物、妖怪)と差別的に呼ばれた。

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