琉球八景①~徐葆光の「筍崖夕照」をめぐって

2014-04-17

   久貝清次・画 「琉球八景」アクリル画 81.5×115.7cm

天気に誘われて波の上一帯を散策した。波上宮、ビーチ、旭ヶ丘公園一帯である。「琉球八景」久貝清次展(徐葆光-周煌-葛飾北斎)を訪ねて(2014.1.21~2014.2.2)に合わせて琉球八景をもう一度歩いてみようと企画していたが、体調が伴わず延び延びとなってしまっていた。

「琉球八景」のことの起こりは1719年、尚敬王の冊封副使として来琉した徐葆光(じょほこう)の『奉使琉球詩 舶中集』の「院旁八景」の一連の漢詩である。滞在所が久米村の天使館だったのでその近在(院旁)の八景をとりあげたのである。それをベースにして尚穆王の冊封使として来琉した周煌(しゅうこう)は、琉球冊封使録『琉球国志略』に球陽八景として絵図化したのである。さらに天保3年(1832)に葛飾北斎はひとつの琉球ブームに沸く江戸にあって球陽八景絵図を元に「琉球八景」を制作したといわれる。前年の1831年に「富嶽三十六景」を完成させているのでその翌年にあたる。「琉球八景」には「富嶽三十六景」の残像のように富士山がしのばせてある。また、降らない雪が降っていたりもする。八景思想は、北宋の宋迪(そうてき)の「瀟湘八景(しょうこはっけい)」が原点といわれるが、「琉球八景」と八景思想との比較はつっこまれているとはいいがたい。「琉球八景」とは「臨海潮聲」 (りんかいこせい)、「泉崎夜月」(いずみざきやげつ)、「粂村竹籬」(くめむらちくり)、「龍洞松濤」(りゅうどうしょうとう)、「筍崖夕照」(じゅんがいせきしょう)「長虹秋霽」(ちょうこうしゅうせい)、「城嶽霊泉」(じょうがくれいせん)、「中島蕉園」(なかしましょうえん)である。八景につらなるものとして、「東苑八景」、「首里八景」、「首里十二勝景」などがある。

徐葆光の公式の冊封使録は『中山伝信録』である。それは康熙帝への復命書である。康熙帝は冊封正・副使の質と役割を大きく転換させ、翰林院を中心に人選して派遣している。康熙帝最初の冊封使は張学礼で尚質王への冊封だったが、兵科副礼官であった。康熙帝の二回目となるの冊封使は汪輯で尚貞王への冊封であったが、翰林院検討であった。以後、清朝最後の琉球冊封使(1868年)まで冊封正史は翰林院からの派遣として踏襲される。翰林院は康熙帝直属の秘書室であり、当時の最高の人材のあつまる場所である。容姿端麗だったといわれる徐葆光も康熙帝の取り立てで翰林院編修となっている。その時の正史・海宝は翰林院検討である。徐葆光の学識豊富な文学侍従官としての才能は『中山伝信録』にも溢れており、私的な詩集として刊行された『奉使琉球詩』にも人柄とともに溢れている。『奉使琉球詩』は「舶前集」「舶中集」「舶後集」の三巻で構成されているが、沖縄県立図書館(東恩納文庫所蔵)は「舶前集」のみで、「舶中集」「舶後集」を欠いていた。それを発見し貴重な記録である「舶中集」を公開してくれたのは鄔揚華(ウ・ヤンファ)の功績による。それは『「徐葆光 奉使琉球詩 舶中集」詳解』(鄔揚華・著)に詳しい。もうひとつは蘇州のひと、徐葆光の没年は彼女の調査によりこれまで1723年没とされていたのが、1740年と提示されたのも大きな発見である。「舶前集」は康熙帝からの拝命から福州を立つまで、「舶中集」は福州を立って、那覇港着、そして琉球滞在中のことまで、「舶後集」は那覇港を立って帰国し、復命までの作品を収めてある。
『奉使琉球詩 舶中集』(196首)に波上宮あたりは「院傍八景」の五番目に「筍崖夕照」(しゅんがいせきしょう)として詠まれている。

日日晩来遊
残霞水外淳
郷心随日下
不覺海東流

筍(たけのこ)のような崖と表現している。もともと風葬の場として「波上洞穴」は知られており鍾乳洞の石筍のような崖という意味だが、徐葆光が鍾乳洞穴のことを踏まえつつ外景の石筍を思わす崖をとらえたかは定かではないが、波上宮のなりたちを考えると当を得たものといえる。「おもろ」にも「波の上、端ぐすく」とみえるからグスクとしての拝所として、次第にニライカナイへの、海の彼方への遥拝所として信仰を濃くしていったのであろう。いくつかの変遷はあるが、本地垂迹を軸とする神仏習合等がかぶさり、波上宮・護国寺が整備されていく。熊野権現を勧請し、本地は阿弥陀如来・薬師如来・千手観音である。琉球八社のひとつで寺院は真言系である。そのなかで護国寺は本寺的な位置づけを持っていた。琉球八社の構造はよく似ており、元の信仰の洞穴を内包している。

詩で「海東」とある。中国から海の東にある琉球国ということを指しているので海東=琉球と読み替えていいだろう。『奉使琉球詩 舶中集』を読むと徐葆光はよく波の上を散策したり、宴をはったりしている。お気に入りのスポットだと知れる。崖の上から眺める海原が気にいったのだろう。詩では夕方の輝く海原を眺めてふと異郷の地にいることを忘れたとある。「毎日、毎日夕暮れには波の上に遊びに来る。消え残る霞は海原に浮かんでいる。夕日が落ちるのにつれて、故郷を思いやる気持ちが薄らいでいく。この海東(琉球)に居るんだということを忘れてしまっている」というような意訳となるのか。波の上(なんみん)の崖の上から海のはてに沈んでいく夕焼けを見つめているうちに、海の彼方にある故郷・蘇州への郷愁もしばし薄れていって、琉球の風物の中にとりこまれている自分を思いやったのだろうか。

写真は潮の引いた浜からの波上宮である。徐葆光はこの詩のほかに「復遊波上」「隋潮弄滄州」「波上琴席中山諸大夫分賦」「夕波初上弄潮風」「採芝歌贈蔡大夫茂功」等、波の上の浜での遊びを詠ったものがある。また、「九日石筍厓登高」では九月の重陽節に山に登り邪気を払い、長生を願う中国の習俗を踏まえて、去年の「泰山」「中原」と今年「石筍厓(波上)」「海東(琉球)」を対比しながら秋の悲愁めいたものや望郷といったものを引き出している。


現在の波上宮からの海の眺望は大きく変貌してしまった。眼下にはふたつの道路が走っている。奥の道路は西海岸道路構想(読谷村~糸満市)の一環としての国道58号「那覇西道路」(那覇空港IC~沈埋トンネル~若狭IC)である。奥の右手が若狭ICに連結されている。手前は那覇港那覇ふ頭と新港ふ頭(安謝新港)を結ぶ那覇臨港道路で、右手は「泊大橋」へと連結されていく。


この日は大潮で崖下を通り波の上ビーチへ渡ってみた。途中洞穴のように深くえぐられた所がある。母の話では、戦前の波の上の話だが、この崖の下は水死体の集まる場所だったという。今は雪の崎(若狭小の先にある若狭海浜公園内)の岩礁も戦争や区画整理などでつぶされ、前島、兼久、泊も埋め立てられ潮の流れも変わってしまったが、往時は深く入り組んだ潮の流れの加減で波の上の崖下は水死体などの流れ着く場所でもあったようだ。風葬洞穴といい、海への、ニライカナイへの遥拝といい、波の上の崖一帯は生と死まざりあう聖地として祀られてきたのだろう。


ビーチよりの崖下には黒猫が居た。たびたび会う猫だが、精悍さはいつも変わらない。ビーチから護国寺を右に見て旭ヶ丘公園へ足を延ばした。ニュースで韓国のフェリー「SEWOL(セウォル)」号の事故が報じられていた。元の「フェリーなみのうえ」だということも知った。「フェリーなみのうえ」では那覇港~本部港~与論と旅した思い出もある。

    周煌『琉球国志略』球陽八景 「筍崖夕照」

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

琉球八景(シリーズ)
琉球八景①~徐葆光の「筍崖夕照」をめぐって
琉球八景②~徐葆光の「城嶽霊泉」をめぐって
琉球八景③~徐葆光の「臨海潮聲」をめぐって
琉球八景④~徐葆光の「龍洞松濤」をめぐって
琉球八景⑤~徐葆光の「長虹秋霽」をめぐって
琉球八景⑥~徐葆光の「泉崎夜月」をめぐって
琉球八景⑦~徐葆光の「中島蕉園」をめぐって
琉球八景⑧~徐葆光の「粂村竹籬」をめぐって

 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

Copyright(c) 2015 ホタルブログ All Rights Reserved.Designed by o2BusinessTheme