第一尚氏の墓 その①

2016-03-23
クミスクチン

クミスクチン

忙しさから開放されて、気まぐれな天気の合間をぬっての散策となった。第一尚氏ゆかりの墓をめぐってみようと思い立ち、朝のコーヒーもそこそこに飛び出した。クミスクチンの花がうりづんのひざしで輝いていた。

第一尚氏王統のための墓所はもともと首里池端町の天山陵跡であったと伝えられている。位置は第二尚氏の陵墓「玉陵」と相対する。500メートルほどしか離れていない。まずは、識名の「尚徳王御陵跡」に寄る。第一尚氏歴代の王たちの遺骨は、近親者たちの素早い判断により、天山陵墓焼き打を危惧し遺骨を異動し、隠されたと伝わる。紆余屈折はあるが現在大筋整理すれば次のようになる。

△天山陵墓(首里池端町。現在は個人所有地。沖縄県教育委員会調査資料がある)
△尚思詔(南城市佐敷。佐敷ようどれ)在位1406~1421(1354年~1421年)
△尚巴志(読谷村佐敷森)在位1422~1439(1372年~1439年)
△尚 忠(読谷村佐敷森)在位1440~1444(1391年~1444年)
△尚思達(読谷村佐敷森)在位1445~1449(1408年~1449年)
△尚全福(浦添市城間遥拝所⇒仲井間小道路向かい)在位1450~1453(1398年~1453年)
△尚泰久(南城市玉城。尚泰久王墓)在位1454~1460(1415年~1460年)
△尚 徳(那覇市識名。尚徳王御陵跡)在位1461~1469(1441年~1469年)

尚徳王御陵跡

尚徳王御陵跡


尚徳王の死をめぐっては、久高島に参詣していた折、金丸クーデターが起き、帰途船上から海に身を投げた。従臣らと北部へ逃れた。喜界島へ、宮古島へ逃れたなどの多くの伝承を纏っている。『上間誌』や『真和志市史』などによると、上間の支配者・安謝名(アジャナ)たちによりカネマン墓(安謝名家の墓)に遺体を葬ったことが記されている。カネマン(金満)にまつわる洞は鍛冶神をまつる聖地ともなる。「尚徳王御陵跡」そのカネマン墓が「尚徳王御陵跡」と伝えられている。カネマン(金満)にまつわる安謝名(アジャナ)は、鉄を扱える、あるいはその利権にあずかる有力者で、それゆえ幼い尚徳の守役として思いも深かったのだろう。沖縄の鍛冶神についは下記の「金満(カニマン)御嶽・宮」にも書いた。
金満(カニマン)御嶽・宮

ゆかりの深かった安謝名(アジャナ)たちの手によってカネマン墓に葬られた尚徳王だが、三男の屋比久大屋子の碑が尚徳王御陵跡から近くの上間の石獅子の近くにある。佐敷より移されたという。碑には「佐敷村字新里仲嶺森に在ったが、1965年、現在地に碑を建立して奉迎した。楊氏屋比久門中」とある。

尚徳王=長男 佐敷王子 首里城内の真玉森で母とともに殺害
    次男 浦添王子 守役に助けられ薩摩へ逃亡
    三男 屋比久大屋子 乳母とともに佐敷間切の新里へ

尚徳王御陵跡から上間公民館向けにいき、東南端に抜けていくと上間中央公園の高台に行き着く。そこから東方向に崖の縁を縫うようにいくと「カンクウカンクウ」と呼ばれる石獅子に行き着く。そこから少し同じように辿ると「ミートゥンダー」(夫婦)の獅子に辿りつく。そこから100メートルほどゆくと民家で行き止まりとなる。その右手の崖斜面の墓域の上部に屋比久大屋子の碑がある。

上間石獅子「カンクウカンクウ」

上間石獅子「カンクウカンクウ」


上間石獅子「ミートゥンダー」

上間石獅子「ミートゥンダー」


屋比久大屋子の墓

屋比久大屋子の墓


尚巴志、尚忠、尚思達、尚金福、尚泰久王の遺骨は平田之子(ひらたぬしー)と屋比久之子(やびくぬしー)によって天山陵から末吉の山へ、さらに浦添間切城間村の「シリン川原」へ移動し、尚金福王は「シリン川原」に埋葬したという。尚巴志、尚忠、尚思達、尚泰久王は「シリン川原」から読谷山間切喜納伊良皆村に埋葬したが、尚泰久はそこから伊波村濱南へ移送され、最終的に南城市玉城に葬られる。尚巴志王統崩壊に伴い遺骨も転々と移動している。『知念原門中由来記』に第一尚氏王統の墓所の移動に関して次のように記されている。

「且ツ尚巴志王及尚忠王及尚思達王及尚金福王及尚泰久王等ノ美骨玉ハ原来天山ト云ル所ノ玉御殿ニアレタレシカ尚徳王国亡ニ至テハ平田ノ子及屋比久ノ子等カ西原間切末吉村ノ山林ニ御越シ又此レヨリ浦添間切城間村ノシレンカ原ニ御越シ此ノ時尚金福王ハ城間村シレンカ原ニ御葬レテ尚巴志王及尚思達王及尚泰久王等ハ又此ノシレンカ原ヨリ読谷山間切喜納伊良皆村ニ御越シテ此ノ所ノ境内ニ御葬レヤシカ尚泰久王ハ美乳母ノ所美里間切伊波村ノ濱南ト云ル所ニ御葬レ云々
旦ツ尚泰久王ノ美乳母ハ伊波世ノ主ノ女ナリ伊波世ノ主ト云フハ伊波村ノ今ノ仲間ト云jレ家内ノ元祖ナリ云々
且ツ鮫川大主ノ美骨玉ハ佐敷間切新里村ノ上ノ御墓所ニアリ又尚思紹王ノ美骨玉ハ佐敷ヨルレト云ル所ニアリ」

冒頭の方で整理しておいたのは現在の移動先である。

尚巴志墓1
尚泰久墓
尚金福王はシリン川原に葬ったとある。国道58号の西側、キャンプ・キンザーの北側にシリン川の中流部が顔を出す。上流部は雨水排水路としての暗渠の世界で、尚金福の墓もキャンプ・キンザーに埋もれている。尚金福王の遥拝所が城間(ぐすくま)公民館の斜め向かいにあったが、確認に行ったら移転したあとだった。「大又吉門中御拝堂」と同敷地に碑があった。現在は駐車場となっていた。公民館で尋ねると那覇市の仲井間小学校道向かいの「ほっともっと」横のクイチャー墓へ移転したと教えてもらった。  

尚金福城間用拝所跡

尚金福城間用拝所跡(画面道向かいのブロック塀囲い)


尚金福王移転先

尚金福王移転先


尚金福王が国相・懐機に命じて造らせた「長虹堤」(1451年)は崇元寺から松山のイベガマ(チンマーサー)に至る約1キロメートルの海中道路である。それは那覇港と首里を結ぶ要路となった。王相府王相として尚巴志から尚金福まで仕えた懐機は尚巴志の薨去を道教の本山、竜虎山の天師に伝え、天山陵に葬ったことを報告したことが琉球王府の外交文書を記録した『歴代宝案』に見える。

【第一集巻43-20】(1439年) 
「琉球國王相府王相懐機、天師府大人座前。深感蒙恩。前符己受、不幸國王尚巴志近蒙薨逝請葬陵于本國都城外天齎山縁。(略)」(琉球国王相府王相懐機、天師府大人の座前、深く恩を蒙るを感ず。前に符はすでに受けるも、不幸にして国王尚巴志、近頃薨逝蒙られ、請いて本国都城外の天齎山縁に葬陵す)

長虹堤

長虹堤

その「天齎山」(天山陵)跡に寄ってみた。現在私有地となっているので写真は遠慮したが、尚永王妃(島尻佐司笠按司)は1637年に「天山御墓」に葬られ、1751年「東玉陵」へ移葬とある。また、尚寧王妃(阿応理屋恵按司)は1663年「天山御墓」に葬られ、1759年「極楽陵」へ移葬とある。天山陵が破壊しつくされたのではないということか。

沖縄県教育委員会文化課紀要第1号(1984.3)に「天山陵跡調査の概略」として調査報告が掲載されている。それには「天山は県立博物館付近から西方へ延びる石灰岩丘陵にある。丘の南側は小崖になっている。南側下方はもうひとつ向こうの池端町の台地との間で凹地になっている。この凹地は龍潭から続く地形であり、西方の山川町へ向かって次第に広くなる。天山陵はこの南面する小崖にあった半洞窟を利用して、南向きの墓として造営された。位置的には約五百mの間隔をおいて、第二尚氏の陵墓「玉陵」と相対している。天山陵は半洞窟の内部を切石積によって整え、開口部も切石積によって外部と遮断した。そして中央に入口を設け、観音開きの扉をとりつけた。さらにその外部前面の斜面下端あたりに石造の欄干があり、下方の平坦地も墓域として囲われていた。墓室は三室あり、とくに西室は下段の前室があって、そこからさらに上段の奥室へアーチ状の石積の羨道が続いていた」とある。

天山陵跡出土の石棺の台座(「天山陵跡調査の概略」より)

天山陵跡出土の石棺の台座(「天山陵跡調査の概略」より)

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