第一尚氏の墓 その②

2016-04-21

尚徳王の子女をめぐって

前回、尚徳王の三男、屋比久大屋子あたりまでふれた。1469年、29歳で薨去した尚徳王の継承は世子の佐敷王子には継がれず、金丸(後の尚円王)のクーデターにより一族の多くが追放、ないしは殺害されたと伝わる。世子の佐敷王子も首里城内の聖域である京の内の真玉杜グスクに隠れたが、探し出され殺害された。その遺骸は京の内の南西側崖に打ち捨てられたという。そこはクンダグスクと呼ばれ今でもその名残を偲ぶことができる。

クンダグスク111クンダグスクのある首里城南西の崖面

次男、浦添王子は守役に助けられ薩摩へ逃亡したとも、殺害されたとも伝わる。史実、言伝え混在して受容していかないとなかなか歴史の闇の手触りはわからない。首里城の京の内は現在すっきりと整備された領域と当初のグスクの空間のようなものとをあわせもっている。この京の内の空間が首里城の湧水構造の上で涵養エリアとして機能していることは前にも書いた。殺害されて崖下に投げ捨てられた世子の佐敷王子の遺骨は真壁間切真栄平村の宮里嶽内の墓に手厚く葬ったといわれる。尚徳王子女の顛末を下記の表で整理しておく。

尚徳王関係図0503003

糸満バスターミナルからだと真栄平(糸満市)へは南部循環線が便利。真栄平バス停留所左横から山手の方に300メートルほどいくと、右手に宮里嶽がある。入口の碑には次のように刻まれている。

めへだいらむら御嶽(宮里嶽)
一 むらの守護神をまつる イビ
一 むら人の健康と安全をまもるビジュンガナシ
一 首里クンダグスクから安置されたといわれる御骨の墓
  霊験あらかたな御神仏として近隣の村々から拝む人が多い
平成二年七月 真栄平区

真栄平111真栄平(めへだいら)の宮里嶽入口。右手は碑。

真栄平222宮里嶽。右手奥に墓が見える。

真栄平333宮里嶽のイビ空間(祭壇)、ビジュル

真栄平444宮里嶽右奥にある墓

クンダグスクにまつわる話が伝わっている。首里奉公した真栄平の男が、仕事をしくじり罪を問われた。悶々とするうちに世子佐敷王子が打ち捨てられた崖下に参り、救いを求めた。願いが通じ罪が許される。祈りの際に約束した通り男は佐敷王子の遺骨を盗み出し、郷里真栄平の宮里嶽に葬った。その時遺骸のクンダ(腓)の骨だけ残してしまった。その遺骸のあった首里城南西の崖下の場所はクンダグスクと呼ばれた。その男の子孫は毎年7月9日には、嶽を7回まわって鼓を100回打ち鳴らし祀り、今でも何年か越しに洗骨するという。関係図から真栄平は与那城王子との関係もあるので、尚徳とのつながりも濃い地であったのだろう。真栄平は西側の真壁と接している。真栄平も真壁も南面へ下っていく耕地のひろがりを持っている。それは米須へと接続していく。米須に「ひめゆりの塔」の慰霊碑があるように、真壁には「万華の塔」があり、激戦地のエリアである。真壁は近世真壁番所が置かれた。真壁グスクの威容を想定すると有力な按司が居たことがわかる。現在の真壁集落は真壁グスクから次第に南へ移動している様子がうかがえる。宿道(しゅくみち)の島尻方西海道は真壁番所を通過し喜屋武番所連結されるのと、摩文仁番所へ連結されるのに分かれる。真栄平の集落には2つのアサギがある。神アサギは三山時代の区分でいえば北山に圧倒的に集中し、北山文化の特徴の一つとしてあげられてきた。南山エリアには七つあるが四か所が真壁エリアである。そのうち真栄平の集落には2つのアサギがある。拝所がずらーと並んでいて思わず足がすくむ思いがしたほどだ。
兼城間切神アシアゲ(波平村)
高嶺間切神アシアゲノ殿(真栄里村)
真壁間切神アシアゲ(名嘉真村)
真壁間切神アシアゲ(新垣村)
真壁間切神アシアゲ(真栄平村)
真壁間切真栄平アシアゲ(真栄平村)
喜屋武間切神アシアゲ(上里村)
知念間切神アシアゲ(安坐真村)
玉城間切神アシアゲ(奥武村)

真栄平555真栄平集落内にある拝所

屋比久大屋子をめぐって

尚徳王の世子が殺害され、首里城南西側の崖に捨てられ、それを後年、真栄平の宮里嶽背面の墓に弔ったということで、宮里嶽に足を運んでみた。尚徳王の子女について次男の浦添王子についても謎が多い。黄金子や真栄平との縁の深い与那城王子についても十分な検証があるわけでもない。ばらばらのパズルはかぼそい想像力でつながったり、切れたりの連続である。帰りに真壁の「茶処 真壁ちなー」に寄った。そばを食べながら三男の屋比久大屋子関連の家譜資料に目を通した。家譜が残っている分肌触りが現実味をおびる気がする。三歳の屋比久大屋子が乳母らとともに佐敷間切新里に逃れたのも、第一尚氏の祖地という関係もあっただろう。屋比久大屋子は佐敷間切屋比久の地頭となり称した。明氏はその後裔である。照屋親雲上朝太は第二尚氏尚清王に仕えている。長男の上江洲親雲上長均は明氏安次富家の祖となる。次男の阿手津親雲上長孫は明氏亀谷家の祖となる。阿手津親雲上とは奄美の阿手津地頭となり称した。また、第一尚氏ゆかりの伊平屋島の按司掟にも任ぜられている。首里士族としてのとりたては亀谷親雲上長瀬からとなる。『明姓家譜(亀谷家)』からのざっくりの読み取りである。一方で殺された兄弟がおり、一方で生き延び新王朝にとりたてられた兄弟がいる。それをわけたのはなんだろうかと考えてしまう。

宮里嶽の階段を下りていくと、その道向かいに大きな墓が数基並んでいた(下の写真)。その印象を思いつつ真栄平、真壁を後にした。

真栄平666

真栄平888

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第一尚氏の墓 その②
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