第一尚氏の墓 その③

2016-05-05

富里・當山の周辺

尚巴志の三山統一以降、番所(駅)の整備が進むにつれ、王府の布達は番所から番所へ経由され伝達された。いわゆる「宿次」(しゅくつぎ)である。番所と番所をつなぐ道が「宿道」として整備されていった。王府時代の公道である。当初玉城番所は玉城グスク内に置かれたが尚敬王代に富里に移された。宿道のルートとしては東まわりの「島尻方東海道」である。首里城継世門から南風原番所~大里番所~佐敷番所~知念番所~玉城番所(富里)の宿次である。玉城番所からひとつは東風平番所へ、もうひとつ具志頭番所へとつがれていった。この富里村への道は険しいウザファビラを滑り落ちるようにいった。スタートはグスクロード公園の駐車場の一角にある、ウザファビラ遊歩道の入口からはじめる。かつて石畳道だった名残を求めながら南城市陸上競技場をめざす。

カンナ1途中カンナをみつけた

富里や當山には第一尚氏系統の墓や門中がある。今回はそれを辿ってみた。尚金福王の死後その子の尚志魯と叔父の尚布里(尚巴志六男)との間に王位継承をめぐり抗争が起きる(1453年)。志魯は布里に打ち取られる。首里城を焼失させる内乱は尚泰久(尚巴志七男)が王位を継承し消息する。尚布里は當山に隠遁したと伝わる。尚泰久のあとは長男の安次富加那巴志(金橋)ではなく、三男の尚徳に継承される。尚徳は尚泰久と継室の越来宮里の女の子と伝わる。尚泰久の長男の安次富加那巴志(金橋)、次男の三津葉多武喜、四男の八幡加那志、長女の西按司加那志(百十踏揚)は異母兄弟の尚徳王の迫害を逃れるように富里・當山に逃れてきたという。尚泰久の室は護佐丸の長女。そのふたりの子女に連なる安次富加那巴志(金橋)は安次富グスク、三津葉多武喜と西按司加那志(百十踏揚)は大川グスク、八幡加那志は仲栄真グスクに住みついたと伝えられている。その辺は下記の第一尚氏関係図で確認願いたい。(クリックで拡大)

第一尚氏関係図ccc006
               第一尚氏関係図その①

第一尚氏関係図ddd007
               第一尚氏関係図②。

まず三津葉多武喜と百十踏揚の墓に寄る。南城市陸上競技場の東側の崖中腹にある。墓への階段にかかる手前に案内板がある。次のように書かれている。

百十踏揚(ももとふみあがり)は、尚泰久王の長女で勝連按司阿麻和利の妃であったが、阿麻和利が倒された後、鬼大城といわれた越来城主の大城賢雄に嫁いだ。大城賢雄が尚円王に敗れた後は、弟の三津葉多武喜と玉城字當山の大川グスクで共に暮らしたといわれている。百十踏揚の墓は、西ヒチ森の大岩に安置されていたが、一九六二年(昭和三十七年)頃に中学校校舎建設のために陸上競技場東側にある仲栄眞腹門中墓の側に三津葉多武喜と共に安置されている。(沖縄県南城市教育委員会)

百十踏揚向かって右側が三津葉多武喜と百十踏揚の墓。左は仲栄眞腹門中の墓。

三津葉多武喜の墓はその住居跡とつたわる大川グスクにあったのを現地に移葬された。百十踏揚の墓は、西ヒチ森からの移葬である。三津葉多武喜は仲栄真門中の元祖である。門中との相関は大くくりでいえば、第一尚氏関係図にも記してあるが長男の安次富加那巴志(金橋)は屋良門中、次男の津葉多武喜は仲栄真門中、四男の八幡加那志の次男八幡仁屋思武太は大仲栄真門中、八幡仁屋思武太の次男系は世礼の知念門中へと継承されていく。陸上競技場の管理棟の向かい側のこんもりとしたエリアが仲栄真グシク。ウザファビラの石畳の整備にはこの仲栄真グシクの城壁の石が利用されたといわれる。管理棟向かいのわずかに残された石積にそのグシクの手触りを偲ばせている。この仲栄真グシクは尚巴志の妾として伝わる豊見城按司によって築城が開始され、尚泰久の四男、八幡加那志に引き継がれたといわれる。大きな岩場を利用したグシクである。中の平場への入口を少し進むと道は左右に分かれる。左にいって岩場を回り込むと、自然の岩陰を利用した豊見城按司の墓がある。右へ進むと主留前殿内の平場へ出る。周囲の岩陰には拝所が点在している。また平場には屋敷跡を偲ばせる敷石も確認できる。

仲栄グシク平場仲栄真グシクの平場

平場から集落へ続くゆるい坂を下り、右手へ降りていくと、岩の下にくぐまるようにの世礼ガーがある。世礼ガーの下り口左手の碑には「大正七年八月」と刻まれている。仲栄真グシク周辺にはほかに仲井真ガー、屋武多ガー、正泉ガーなど水にめぐまれた領域であることがわかる。

世礼ガー世礼ガー

南城市役所玉城庁舎(本庁舎)前の番所公園による。玉城番所の跡である。その小公園の石碑には「番所とは現在の役場のことを言う。尚敬王時代初期に玉城城址二の丸から現在地に移転した。」と刻まれている。

番所公園番所公園

富里の集落内には石畳が残っていて往時をしのぶことができる。南城市役所玉城庁舎(本庁舎)の向かいの小路を50メートルゆくと、左手方向に番所ヌカーがある。そのまま進むと県道48号線にぶつかる。それを左手方向に行き、バス停留所富里の右手前方に尚布里の墓がある。尚布里については死亡説もあるが當山に隠遁したと伝わっている。58歳で亡くなり、妻のマカトカニとともに葬られている。この墓の裏には尚布里の次男の布里子の墓もある。尚巴志六男の尚布里と尚金福の子、尚志魯の王位継承の争いは首里城を焼き、尚巴志七男の尚泰久へと継承された。

布不里111尚布里の墓

県道48号線と市役所前の通りとの交差点の点滅信号がある。市役所がわから交差点の左手一帯が安次富グスク。尚泰久の長男、安次富加那巴志(金橋)が築いたとされるグスク。石積みは確認されないが、大きな岩があり、その岩根あたりに古墓がある。大岩の上にも按司墓があるというが人を寄せ付けない大岩で、確認は断念した。その道向かいの左手あたりが大川グスクとなる。尚泰久の三男、三津葉多武喜の住居跡とされる。グスク内には移葬前の三津葉多武喜の墓がある。百十踏揚もここで暮らしたのだろう。勝連按司阿麻和利は父の尚泰久によって滅ぼされ、再嫁した鬼大城の大城賢雄は尚円王(金丸)に滅ぼされた。第一尚氏への風当たりの強い中、弟の三津葉多武喜と大川グスクで身をひそめるように暮らしたのだろうか。

安次富ク゜スク1向かって左手安次富グスク

安次富グスク2安次富グスク大岩の下の古墓

大川グスク1大川グスクの一角

安次富グスクの裏手、富里の南西端の崖の一帯はウフギシ森。奥武島を眼下に見下ろすその崖の一角に尚泰久の墓と安次富加那巴志(金橋)の墓がある。尚泰久は首里の天山陵から難を逃れて転々として1908年に現地に移葬された。安次富加那巴志(金橋)の墓と隣接している。ちょうど墓の裏手に屋良門中の墓があり、その近傍に世禮門中の墓、右隣りに八幡仁屋思亀(尚泰久四男八幡加那志長男)の墓がある。

尚泰久の墓1尚泰久の墓(手前)と安次富加那巴志(金橋)の墓

屋良門中1屋良門中の墓

世礼門中1世禮門中の墓。県道48号線改修工事で現地に移転とある

世礼門中2八幡仁屋思亀(尚泰久四男八幡加那志長男)の墓。左は宮里のろくみの墓

富里・當山には第一尚氏ゆかりの話がまだまだ豊富に眠っている。尚巴志によって持ち込まれた南山由来の諸制度、諸祭祀の原基は琉球王朝第一尚氏を経て第二尚氏へとつがれて成熟していったが、南山の歴史は思っているほど掘り起こされているわけではない。正史の闇に埋もれてしまったものも数多い。尚泰久の四男、八幡加那志の影が富里・當山には濃い。最後は八幡加那志の墓をめざした。當山の集落の眼下に広がる谷がある。その向こう側に小高い當山宇和原があり、その頂上にあるという。その小山は宇和グスクとも呼称されている。當山の集落の急坂を下り、ビニールハウスの展開する農道をつっきり、當山宇和原の麓から急峻な小山にアタックした。三度試みたが目的の墓に辿りつけなく断念した。いつかまた探してみようと今回は断念した。

當山宇和原1當山宇和原をのぞむ

サンニン1帰り際サンニン(月桃)の花が輝いていた

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