第一尚氏の墓 その④

2016-05-27

三山統一といってもその潜在的な残存勢力の雄として、また首里王権のリスク勢力として護佐丸や阿麻和利があり、第一尚氏6代王・尚泰久として尚志魯、尚布里の争乱は王権の基盤というものに対する考えの転機をもたらしたかも知れない。王権が転がり込むとは考えてない段階では、舅の護佐丸は庇護者的存在として頼ることができたが、王権を託されると別な視点への切り替えを余儀なくされたのだろう。王権勢力はリスク勢力の御佐丸や阿麻和利を討取ったともいえる。仕上げは金丸の鬼大城の討伐だろう。多種多様な解釈が渦巻く原因となったのは護佐丸遺児、三男・盛親(もりちか)が第二尚氏王統において毛姓勢力として大きな力を得たためだろう。毛姓家譜や由来記が忠臣護佐丸史観を醸成していったといえる。毛姓の各殿内の人物と平敷屋・友寄事件をめぐる人物との相関関係については別なブログ、「平敷屋・友寄事件の周縁」シリーズで書いてるのでそれを参照願いたい。

さて、梅雨の晴れ間を見て、中城~読谷と第一尚氏の手触りを訪ねた。まず、中城城址からかつての護佐丸の港、吉の浦方面へ少し下った岱城(ダイグスク)に護佐丸の墓がある。『毛姓家譜』(豊見城家)をベースに整理すると、毛姓豊見城家八世・盛定の代に第11代尚貞王(在位:1669~1709)より岱城墓下賜とある。その岱城墓には一世・護佐丸、二世・豊見城親方盛親(家譜記載なし)、三世・豊見城親方盛庸、四世・豊見城親方盛章、五世・豊見城親方盛続、六世・豊見城親方盛良(薩摩からの帰途水死)、七世・豊見城親方盛常(福州で病死)となる。盛庸、盛章、盛続は最初は首里の見上森墓(玉陵の裏側)へ葬られるが後に岱城の墓に移葬された。

八世・豊見城親方盛定、九世・豊見城親雲上盛治、十世・豊見嶺親雲上盛邑、十一世・豊見嶺親方盛幸、十二世・豊見嶺親雲上盛式、十三世・豊見城親方盛昌、十四世・豊見城親方盛政、十五世・豊見城親雲上盛方は繁多川の那覇市識名霊園の豊見城殿内墓に葬られている。豊見嶺となっているのは豊見城王子がいたため、それへの配慮から一字変えてある。

豊見城殿内の墓_1豊見城殿内の墓。

中城城跡を右に見て、県道146号線を南下して最初の左への道を約50メートルほどいくと、左手に石碑がある。その横の階段からはじまる参道をひたすら登りつめていけばいい。参道は整備されているので迷うことはない。八世・盛定が拝領した墓地に建立された沖縄最古の亀甲墓とされる。家譜には盛親の記述はないが岱城の墓に護佐丸とともに眠っているとされる。豊見城殿内の墓に比して、護佐丸の亀甲墓の眉は横におおらかに長くひかれていて独特のゆったりとした優美さを誇っている。

護佐丸の墓_1護佐丸の墓。

羽地朝秀の墓(羽地御殿墓)も亀甲の祖形を忍ばせている。当初の掘込墓を改修したとされるが、屋根はかまぼこ型をしており、臼(ウーシ)や袖石(スディイシ)を欠いている。眉(マユ)の位置も高いという特徴をもっている。玉城朝薫の墓も亀甲墓の祖形と位置付けられている。あと、羽地朝秀の墓の改修がいつだったか、護佐丸の墓は1686年、伊江御殿墓は1687年といわれるが、それより以前であったのか、正確には分かっていない。文献によっては伊江御殿墓が古いとするものもある。

毛氏豊見城家の始祖・護佐丸按司盛春(毛国鼎)の関係図を下記に示して置く。護佐丸の娘と尚泰久の子たちのことはこのシリーズその③「富里・當山の周辺」に書いた。長男・盛光、次男・盛明の消息は不明。三男・盛親は生きのび第二尚氏王統で毛氏豊見城家の祖となる。護佐丸は次男とも、三男ともいわれるが、長男は伊寿留。中城村伊舎堂安里家の祖。安里大親清信は金丸(後の尚円王)擁立の立役者として知られる。毛氏永村殿内の祖。正史は八世・豊見城親方盛定作成の『毛氏家譜』が反映されているといわれる。系図座の設置が1689年。盛定が系図奉行となるのが1692年である。現存する『毛氏家譜』の記述は1454年~1878年(明治11年)の424年である。護佐丸再評価の路線は盛定に負うものが大だと考えている。護佐丸の父は山田按司とある。それが山田城主を指しているのか議論のわかれるところだが、もし山田城主だとするとその系は英祖王統へと接続されるが今回は護佐丸までにとどめておく。

護佐丸関係図。護佐丸系図その1

豊見城殿内の墓を後にして、那覇市識名霊園のCブロックの墓域を抜け道路に出る。左へいけば上間へのびる真珠道。右は真珠道のシードゥビラ(勢頭坂)の下りとなる。繁多川公民館横の真珠道から入りなおすと、道は右へ抜けシードゥビラへと行く道と、繁多川の火ヌ神の拝所へ行く細い路地とに分かれる。火ヌ神の方向へいくと突き当りは小禄家の墓があり、右手に安里大親清信の墓がある。左手にゆくと火ヌ神の拝所となる。安里大親は生没年不詳。唐名は毛興文。安里村の地頭職となる。「虎の子は虎、悪王の子や悪王、物呉ゆすど我御主、内間御鎖ど我御主」と神がかりして謡い始め、一同「ヲーサーレー」とこれに唱和し、金丸(後の尚円王)擁立に功があったとされるのはよく知られた話。崇元寺の建立については諸説あるが安里大親の説もそのひとつ。また、崇元寺の斜め向かいにある、浮縄御嶽のかかわりについての伝承もある。第一尚氏7代63年の王統の終焉を告げた安里大親の謡いであったといえる。

安里大親安里大親清信の墓。

護佐丸の墓から読谷へ。58号線を嘉手納をすぎて伊良皆交差点へ。交差点を過ぎて最初の中央分離帯の開口部を右折して農道へ入る。あたりは嘉手納弾薬庫と隣接する黙認耕作地である。しばらくゆくと左折して車のゆきつく正面に上ヌ川の湧水が待ち受けている。上ヌ川の左手の森がサンジャームイ(佐敷森)である。途中、旧伊良皆部落の拝所、下ヌ川などの湧水などもありかつての生活痕を手探りすることが出来る。上ノ川にゆきつく左の方に小川がありそれに沿うように小道があるのでずんずんゆくと右手に尚巴志、尚忠、尚思達王の墓がある。あまりこの場所が知られてない頃訪ねた時は、道に覆いかぶさる草木を払いながら恐る恐る進んだが、今回踏み込んでみると気持ちいい小道に変わっていた。澄んだ小川が流れ時々蝶が乱舞して道案内のように舞っていたりする。墓も修復の手が少し入っていて、最初訪れた時の幽鬼さは薄らいでいた。

尚巴志尚巴志・尚忠・尚思達の墓。

天山陵墓が焼き討ちにあう前に、「平田之子」と「屋比久之子」の手によって持ちだされたとされる第二代・尚巴志王、第三代・尚忠王、第四代・尚思達王の遺骨の眠る墓を後にして小道を戻る。上ヌ川の近くの道に出る手前に左手上にのびる急な小道がある。それを登ると屋比久之子の墓と平田之子の墓にゆきつく。このふたりについてもわからないことが多い。第一尚氏系は離散してなかなか追っかけが難しいせいもある。平田之子の墓の脇に系を記した石碑がある。孫氏平田家の流れのようで、平田之子の系を平田休林から記してある。孫氏平田家の家譜で拾うと「第一尚氏王統の系統。太宗嗣嵩は1535年佐敷間切平田地頭職。尚思紹王、尚巴志王の末裔。尚思紹王の次男である平田大比屋で、佐敷間切平田の領主であったが、南山城攻撃で戦死し、尚巴志は弟平田大比屋の跡目に自分の長男である佐敷王子を継がせ、平田之子となった。平田之子は多年の功績から、尚巴志王からドンス衣を賜ったといわれる。その子が高荘平田、その息子が休林・平田親雲上で、その息子が平田親雲上嗣嵩と伝えられる」となる。よく整理できてないことが多い。

平田子平田子の墓。

屋比久子屋比久子の墓。

サンジャームイ(佐敷森)から引き返して、58号線を少し南下して、伊良皆交差点を右折する。その県道6号線をトリイステーション向けにゆき、赤犬子宮手前、トイリステーションのエリア手前を古堅小学校向けにいく。小学校の右手にウェンミー原がある。そこに護佐丸を滅ぼした阿麻和利の墓がある。ちょうど小さな畑地があり、手入れしている人がいたので声をかけた。まさか元同僚で、ウェンミー原の阿麻和利の墓のある一帯の所有者とは知らなかった。旧交を温めながら阿麻和利の墓を尋ねるとその小さな畑地に覆いかぶさるような大岩の根に方にあった。最近訪れる人も多くなった、と小さくつぶやいていた。護佐丸、阿麻和利の按司勢力が滅び、鬼大城も金丸(尚円王)に討たれ王権支配の諸制度が整っていく。

阿麻和利阿麻和利の墓。

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