第一尚氏の墓 その⑤

2016-06-17

中城の護佐丸、読谷の尚巴志、尚忠、尚思達、阿麻和利の墓の帰りに、沖縄市知花城址南崖にある鬼大城(おにうふぐしく)の墓には寄れなかったので改めて訪ねてみた。満開の鳳凰木(ホウオウボク)を見て、出発した。
6月16日明けた梅雨は一気にむせるような気流のかたまりを呼び込んだ。一気に紫外線も強さを増したようだ。

鳳凰木1写真は街路樹の鳳凰樹。那覇市福州園界隈。

梅雨でもたらされた知花城址の湿りはまだ残っていて、木の葉を踏むと梅雨の残滓を感じることができる。鬼大城(おにうふぐしく)の墓は知花城址の南崖にある。直接南崖側からの階段を上るのが手っ取り早いが城址は久しぶりなので、時計と反対まわりに、城址を確認しつつ探した。

前回「羽地朝秀の墓(羽地御殿墓)も亀甲の祖形を忍ばせている。当初の掘込墓を改修したとされるが、屋根はかまぼこ型をしており、臼(ウーシ)や袖石(スディイシ)を欠いている。眉(マユ)の位置も高いという特徴をもっている玉城朝薫の墓も亀甲墓の祖形と位置付けられている。あと、羽地朝秀の墓の改修がいつだったか、護佐丸の墓は1686年、伊江御殿墓は1687年といわれるが、それより以前であったのか、正確には分かっていない。文献によっては伊江御殿墓が古いとするものもある。」と書いた。前回のリンクでは羽地朝秀の墓は草が刈り取られておらず、眉や眉の位置の高さがはっきりしてなかったので、盗り直して下の写真を張り付けてみた。
羽地朝秀1写真は羽地朝秀の墓。

浦添警察署から700メートルほどいった前田トンネルの真上にある玉城朝薫(1684~1734)の墓も羽地朝秀の墓同様亀甲墓の祖型を示している。墓は朝薫を含む尚氏辺土名家の家族墓だが、朝薫は首里石嶺町にあった、「一ツ墓」に葬られていた。洗骨は嘉慶十年と銘書(メーガチ)にあることから、71年後に洗骨され、厨子甕に納められたことがわかる。その厨子甕を前田の辺土名家の墓に移葬したのは1899(明治32)年とされる。移葬後、一ツ墓は空き墓となったが昭和初期まではまだ残っていたことが伊波普猷たちの記述などでわかる。何故個人墓として分かしたのかは謎だが、辺土名家の墓にすんなり入れることについて、はばかることがあったと推定はできる。それが平敷屋・友寄事件のからみなのか、継室・武樽が百姓身分だったせいなのか、いろいろと推測はされるがひとつの謎として語り継がれている。墓についてブログには次のように書いた。
「琉球石灰岩でできた袖石垣がこの墓の趣を特異なものとしている。左右非対称で、その微妙な対象のくずれが魅力でもある。僕にはウミガメの前肢のように見える。確かに破風墓から亀甲墓への移行期の形態だといわれるのも頷ける。袖石垣の左右末端を弧で結ぶ形で縁石をめぐらし、一段高く墓庭をバチ形に仕上げてある。朝薫の厨子甕と確認されたのは厨子に『玉城親方 朝薫 擁年十二年 甲寅正月廿六日卒 享年五十 号能達 嘉慶十年乙丑二月十五日洗骨』との銘書(メーガチ)があったからである。」

玉城朝薫写真は玉城朝薫の墓。

那覇市首里石嶺町ある伊江御殿墓は護佐丸の墓同様、亀甲墓の形式としては古い墓である。伊江御殿は、第二尚氏王統第4代尚清王の第7王子・伊江王子朝義を元祖とする御殿(うどぅん)である。墓は全体としてはこぶりな感じがする。護佐丸の墓同様、ヒンプンを欠いている。伊江御殿墓(いえうどぅんばか)は1999(平成11)年12月1日に国指定重要文化財に指定されているが、案内板には次のようにある。

「伊江御殿墓は、第2尚氏王統第4代尚清王の7子朝義を祖とする名家の墓です。墓本体は、幅約11m、奥行きが約17m、面積が約140㎡で、周辺樹木域を含めた2、266㎡が指定されています。『尚姓(伊江家)家譜』によると、5世朝嘉が康煕26(1687)年につくったことが記されています。墓自体は、大規模ではありませんが、沖縄地方特異の亀甲墓のとるもので、県内では最も古い亀甲墓の一つです。本墓は亀甲墓の初期の典型として、墓正面に「マユ(眉)」と呼ぶ部分と墓口の部分が後期のそれに比べて狭いのが特徴です。墓は斜面を切り開いてつくられた石造墓室と、その前面に擁壁および石垣で画された部分からなっています。琉球石灰岩の切石で構築し、主要部分を白漆喰仕上げとしています。内部はマチと呼ばれるアーチ式の石組みになっていると言われています。外部は、ヒンプンを欠くものの、ヤジョーマーイ、ウーシ、クー(甲)など近代の様式に見られる要素をすべて備えています。
 伊江御殿墓は、保存状況もよく、造墓年代が明らかな初期亀甲墓の典型として、歴史的価値が高く重要なものです。
 那覇市教育委員会 2001年(平成16)年 3月設置」

伊江殿内の墓1写真は伊江御殿墓。

尚巴志による三山統一は成ったものの王権を安定させるにはまだまだ気が抜けない勢力が存在していた。勝連の茂知附按司は交易を盛んに行い、勝連に一大勢力を張っていたと考えられる。倭寇の出ともいわれるが、その勢力とのつながりも強かったかも知れない。尚巴志の布陣は越来グスクに七男の尚泰久を入れ、勝連ののど元の江州グスクに六男の尚布里を入れ、中城グスクに北山討伐の功労者でもある護佐丸を配した。尚巴志が没し、北山監守の二男、尚忠の即位と護佐丸の中城への移転は同一の基軸で行われたと見てとれる。阿麻和利が茂知附按司を滅ぼして勝連を掌握すると、尚泰久は娘を阿麻和利に嫁がせる。ひとつの懐柔策だっただろう。鬼大城はその時娘の百十踏揚(ももとふみあがり)の付人としてついていった。阿麻和利が護佐丸を討ち、尚泰久、鬼大城ら首里軍が阿麻和利を討つ。王権が第二尚氏に移ると金丸(尚円王)は鬼大城を討つ。権謀術数渦巻くこのあたりのことを考えながら、護佐丸、阿麻和利、鬼大城の墓の前に立つと感慨深いものがある。

護佐丸aa写真は護佐丸の墓。

アマワリ写真は阿麻和利の墓。

鬼大城1写真は鬼大城の墓。

知花城址を反時計まわりに南崖を用心深く進むと、鬼大城の墓に出くわす。側には威豊3(1853)年に夏氏の子孫が建てた碑文がある。また、案内板には「鬼大城(おにうふぐしくの墓」として次のように記されていた。

「大城賢勇は大柄で武勇に優れ、俗に鬼大城と呼ばれた。1458年に首里王府軍の総大将として勝連按司の阿麻和利を討伐し、その功績で越来間切の総地頭に任ぜられた。その後、政変で第一尚氏王統はほろび、鬼大城もこの地に追われ自害した。」

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