第一尚氏の墓 その⑥

2016-06-25

「佐敷ようどれ」「佐敷上グスク」

「佐敷ようどれ」は南城市の知念半島の台地(海抜約150m)に移葬されてある。現在は「航空自衛隊知念分屯基地」の管理地エリアの一角にある。戦後、米軍は1957年5月27日、一帯の土地を接収した。接収に際し、陳情を重ね墓域は霊域として残された。後に米陸軍のナイキ基地として運用され、1973年5月14日、米陸軍から自衛隊に移管された。地対空誘導弾(ペトリオット)をもつ第16高射隊、第18高射隊が駐屯し、管理地(南城市佐敷)、運用地(南城市知念)の両エリアを合わせた総面積は約28万㎡である。両エリア間にはつきしろの街、沖縄刑務所、国土交通省のVORTAC(民間機、軍用機双方が共用する、方位及び距離の情報を同時に提供する施設)がある。

尚思紹の墓2写真は佐敷ようどれ。

琉球ゴルフクラブを過ぎると県道86号は重複路線の県道137号から分かれてつきしろ方面へのびる。やがて左側に航空自衛隊知念分屯基地のゲートが確認できる。ゲートで「佐敷ようどれ」を見たいと告げ、所定の手続きをすますと、隊員が案内してくれる。ゲートから200m弱程度の距離にある。基地内の施設の撮影は禁止だが、墓は写真に撮ることができる。「佐敷ようどれ」の墓横の案内板には次のように記されていた。

◇県指定史跡 佐敷ようどれ 昭和33年1月17日指定
この墓は「佐敷ようどれ」と呼ばれ、尚巴志の父である思紹とその家族が葬られていると伝えられています。尚巴志は1402年に父思紹のあとを継いで佐敷按司となり、やがて中山王となりました。その後1422年に北山を、1429年に南山を滅ぼして三山を統一した人です。佐敷ようどれははじめ、佐敷城近くの崖下にありましたが、風雨による損壊がめだったので、1764年(乾隆二十九年)にこの地に移築されたのです。この墓は琉球石灰岩を用いて建造され、半円形の屋根をもった駕籠型の独特の形をしています。間口3.3m、奥行2.6m、軒高2.1mとなっています。なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。
沖縄県教育委員会 佐敷町教育委員会◇

また、1959年には尚巴志の祖父・佐銘川大主夫婦も合祀された。さて、航空自衛隊知念分屯基地を出て県道86号をニライ・カナイ橋方面に向かうと突き当りは陸上自衛隊基地となる。そこを右へおれてアーチをくぐるとニライ橋である。カナイ橋と降りていく。斎場御嶽(せーふぁうたき)をすぎ、海野を過ぎ、佐敷上グスクをめざす。尚思紹、尚巴志親子の居住地とされる。「佐敷ようどれ」からは崖下の方向にあたる。当初、墓は西上原の崖下に掘り込み墓として造られていたが、崩落で、1764年(乾隆二十九年)尚灝王(しょうこうおう)代に移築とある。移築をめぐる経緯の詳細や第二尚氏・尚灝王(しょうこうおう)代の第一尚氏、尚思紹王の取扱の経緯などはよく知らない。西上原の崖一帯も勝連半島から知念半島にかけての中城湾沿い特有の脆弱化しやすい島尻層群泥岩でできている。崖崩れによる移築も頷ける話である。

尚思紹の墓写真は佐敷ようどれ。

首里城継世門から降りていく宿道の「島尻方東海道」は崎山馬場を抜け、ウフジョウバンタから下原橋を渡り南風原番所(現在南風原町立宮平保育所)へと継がれる。それから大里番所(大里グスク)を経て、新里、桃原屋取跡を経由して佐敷番所(現南城市佐敷出長所)へと継がれる。桃原屋取から延びる宿道は「JA島尻東」あたりで国道331号線と合流し、50mほど南下し、右へカーブしていく。鳥居をくぐり部落内の内道を100mほど進むと番所である。鳥居より丘陵の中腹あたりに佐敷上グスクがある。佐敷上グスクは、尚思紹・尚巴志によって築城された(14~15世紀)とされるグスク。標高は40~50mの舌状台地の先端部に位置する。別名「上グスク」と呼ばれる。グスクの最上段に上グスクの嶽がある。域内にはカマド跡、内原の殿、尚巴志王遺跡碑文(1922年)、つきしろの宮(1938年建立。1962年再建)などがある。また、慰霊の塔もあり、明治の皇民化政策の残滓から、沖縄戦の慰霊の塔、グスク時代の遺物が混在した域となっており、めまいを覚えてしまう。佐敷グスクの案内板には次のように記されている。

◇佐敷グスク(上グスク)
佐敷グスクは、三山を統一した尚巴志とその父尚思紹の居城跡といわれています。1979年の発掘調査によって、青磁、白磁のお碗や皿、土器、石器、鉄釘や小銭などが出土しました。また、柱の穴のあとや土留めの石積みも確認されましたが、沖縄各地のグスクにみられるような石垣はまだまだ発見されていません。
佐敷町教育委員会◇

つきしろの宮1写真はつきしろの宮。

つきしろの宮2写真はつきしろの宮。

つきしろの宮3写真は尚巴志王遺跡碑文。

上グスク之嶽の案内板には次のようにあった。

◇上グスク之嶽
拝所巡礼「東御廻り」(アガリウマーイ)のコースの一つで、『琉球国由来記』には祭神としてスデツカサノ御イベ・若ツカサノ御イベの二神が記されています。もともとこの場所にあったのかは、まだ分かっていません。
南城市教育委員会◇

上グスク嶽写真は上グスク之嶽。

◇上グスクのカマド跡
グスク時代のカマド跡といわれており、火の神を祭ったところと考えられています。また、この辺りは女官たちの働いていた場所といわれています。そのようなことから、女官の詰所といわれる内原の殿は、もとはこのカマド跡にあったといわれています。
南城市教育委員会◇

カマド跡写真はカマド跡。

◇内原の殿(ウチバルヌトゥン)
内原の殿は、上城の殿ともよばれ、女官たちの働いていた場所といわれており、もともとはカマド跡付近にあったと考えられています。以前は粟石の柱で壁はありませんでしたが、昭和55年にコンクリートのほこらに建て替えられました。
南城市教育委員会◇

内原の殿写真は内原の殿。

佐敷上グスクより東側に連なる丘陵の中腹あたりには思紹、尚巴志親子の遺跡が点在している。佐敷上グスクからは勝連半島が眺望できる。勝連の茂知附按司、茂知附按司を滅ぼした阿麻和利ともども海外貿易を背景に勢力を伸ばした。尚巴志一統の繁栄も佐敷上グスクを拠点とした海外貿易にあったとされる。佐敷上グスクと海とのかかわりについては十分に考察されているとはいいがたい。佐敷番所を出た宿道を辿ろうにもユックイノヒラ、アカバンター、赤道ウマイー、知念番所への道は歴史の道としての整備はほどこされていないので、スムーズに辿ることはできない。津堅島と久高島の間にある二ツ口と呼ばれる水深約60mの谷や久高口のことや、ヌー(澪)のことなどを思いながら佐敷上グスクを離れた。

勝連半島写真は勝連半島。

☆「佐敷町教育委員会」「南城市教育委員会」と表記のぶれがあるが、2016年6月24日時点の現地案内板の表記に基づいた。

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